久留倍官衙遺跡とは? わかりやすく解説

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久留倍官衙遺跡

名称: 久留倍官衙遺跡
ふりがな くるべかんがいせき
種別 史跡
種別2:
都道府県 三重県
市区町村 四日市市
管理団体 四日市市三重県
指定年月日 2006.07.28(平成18.07.28)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 四日市市内の北部丘陵の東先端部に位置する古代官衙遺跡多数掘立柱建物検出した検出した遺構大きくⅠ期からⅢ期分けられⅠ期正殿脇殿等を整然と配置する政庁Ⅱ期長大東西建物群、Ⅲ期倉庫群からなる正倉院と、時期により異なった性格を示す。また、これらの遺構群は全て東を正面とする点が特徴となる。その他、丘陵北東斜面部にも同様にⅠ~Ⅲ期変遷をたどる掘立柱建物群があり、館や厨としての機能想定できる
久留倍官衙遺跡は官衙政庁正倉院等が時期ごとに場所を違えて展開するもので、古代伊勢国朝明郡衙跡である可能性が高い。壬申の乱の際に大海人皇子(後の天武天皇)が朝明郡立ち寄ったことが知られており、それとの関係も注目される
久留倍官衙遺跡は官衙遺跡をその規模配置等が明確な形で検出し政庁正倉院等が明瞭に把握できる点で貴重である。これは、古代国家地方支配体制具体的に示すものとしてきわめて重要である。

久留倍官衙遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/12 09:56 UTC 版)

久留倍官衙遺跡
久留倍官衙遺跡 南倉から正殿・八脚門を望む
久留倍官衙遺跡の位置
所在地 三重県四日市市
地域 三重県
座標 北緯35度00分53秒 東経136度38分00秒 / 北緯35.01483度 東経136.63322度 / 35.01483; 136.63322
歴史
完成 7世紀

久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)は、三重県四日市市大矢知町にある官衙遺跡2006年7月28日に国の史跡に指定されている[1]

概要

久留倍遺跡は、四日市市北東部にある、弥生時代から中世に至る遺構が残る複合遺跡である。久留倍遺跡のうち、古代の朝明郡衙(あさけぐんが)関連施設の遺構が残る区域が「久留倍官衙遺跡」の名称で国の史跡に指定されている[2]

久留倍官衙遺跡は、伊勢湾に向けて東流する朝明川海蔵川(かいぞうがわ)の間、垂坂丘陵の北東端に位置する。標高は最高所で30メートルである。1999年以降、国道1号北勢バイパスの建設工事に際して調査が実施され、朝明郡衙の遺構が確認された。このため、北勢バイパスは構造・設計を変更し、遺構が保存されることとなった[3]が、これら遺構を郡衙と断定することについては、異説も唱えられており、延喜式による朝明駅ではないかとする説も存在している[4]

日本書紀672年(天武天皇元年)六月条には、同年に発生した壬申の乱に際し、大海人皇子(後の天武)が朝明郡迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神を遥拝し、戦勝を祈願したとの記事がみえる。なお、この迹太川が現在のどの川にあたるかは確定していない。また、『続日本紀』には740年(天平12年)、聖武天皇が朝明郡に行幸したとある。四日市市内には聖武天皇の行幸に関する伝承が複数残っている[5]

遺構

正殿(庁屋、I期)
八脚門・塀(I期)

遺跡は、地形的には、郡衙の政庁があった丘陵上部の平坦面、正倉院があった東側の斜面、関連建物群があった北東の丘陵裾部の3地区に分かれる。以下、本項ではそれぞれを「丘陵上部」「東斜面」「丘陵裾部」と呼称する[6]

遺跡内では約80棟の掘立柱建物跡が検出されている。これらの建物の存続期間、建て替えの前後関係、各建物の性格などを整理すると、遺跡の変遷は次の3期に分けられる[6]

  • I期 - 7世紀末から8世紀前半、丘陵上部に東を正面とする政庁が存在した。
  • II期 - 8世紀前半から同後半、丘陵上部にI期の政庁に替わって、南正面・東西棟の長大な建物が建てられた。
  • III期 - 8世紀後半から9世紀末、東斜面に正倉院が営まれた[6]

I期

丘陵上部に政庁が建てられた。正殿とその手前左右(南北)の脇殿が「コ」の字形に並び、これらの東側正面に八脚門があった。八脚門とは正面柱間が3間で、本柱の前後に控柱が4本ずつ(計8本)立つ形式の門である。政庁区域の規模は、東西42メートル、南北51メートル、面積2,142平方メートルであった[7]

一方、丘陵裾部にもI期に属する掘立柱建物群跡が見出される。裾部では竪穴建物跡も検出されているが、竪穴建物と掘立柱建物が同時期に併存したとは考えがたく、前者の廃絶後に後者が建てられたとみるべきである。出土土器の年代も合わせ考えると、竪穴建物は7世紀後半まで存在。裾部の掘立柱建物は7世紀末から8世紀初めに建てられ、丘陵上部の政庁はこれよりやや遅れての建立。これらの掘立柱建物は8世紀前半のうちに廃絶したとみられる[8]

II期

丘陵上部には、東向きの政庁に代わって、南を正面とする、東西方向に長い建物が建てられた。ほぼ同規模の建物が南北2棟あり、南の建物は政庁の北脇殿の跡に建っていた。南の建物は桁行14間×梁間3間、実長は29.4メートル×6.9メートル、床面積は202.86平方メートル。北の建物は桁行14間×梁間3間、実長は30.0メートル×6.75メートル、床面積は202.5平方メートルであった。この期の建物は、後述の正倉院の建物によって削平されている。すなわち、この期の建物は正倉院よりも古く、8世紀前半から後半に存在したことがわかる[9]

III期

東斜面に建物群と区画溝が造られる。総柱建物(建物の外周だけでなく内部にも密に柱を立てるもの)が整然と建つところから、正倉院とみられる。当初は丘陵上部まで正倉院と区画溝が延びていたが、後に丘陵上部と東斜面の間に区画溝が造られ、正倉院の区域は東斜面のみになる。建物の方位はふたたび東向きになっている。溝からは8世紀後半の土器が出土するため、この頃に正倉院が成立し、9世紀末か10世紀初めには溝が埋められ廃絶したとみられる。なお、溝からは8世紀前半以前の土器も出土するが、これは古い時期の土器が流入したものと解釈されている[10]

遺構の位置付け

I期の建物群は、南でなく東を正面とする点が異例であるが、各地の郡衙遺跡との比較や、郡内に他に該当する遺跡がないことから、朝明郡の政庁と考えられている。II期の東西に長い大型建物については、当時「屋」と呼ばれた、土間ないし平地床の倉庫ではないかと考えられている[11]。一方で、聖武天皇の朝明行幸(740年)に際して造られた頓宮だとする説もある。740年の行幸はII期の建物の存続時期と重なることから、聖武の行幸となんらかのかかわりがあった可能性もある。北東の丘陵裾部の建物群については、官衙に付随する館(たち、宿泊施設)や厨(くりや、役人の食事を準備した建物)であった可能性がある[12][13]

所在地

  • 〒510-8034 三重県四日市市大矢知町2267-8

久留倍官衙遺跡公園

2020年(令和2年)10月11日、久留倍官衙遺跡の公園整備事業が「久留倍官衙遺跡公園」として完了し[14]、11月1日にオープンした[15]

ギャラリー

久留倍官衙遺跡2024年10月5日撮影

脚注

  1. ^ 久留倍官衙遺跡 | 四日市市役所”. www.city.yokkaichi.lg.jp. 2020年12月12日閲覧。
  2. ^ 四日市市教育委員会 2011, p. 1.
  3. ^ 四日市市教育委員会 2011, p. 1,3.
  4. ^ 山中章「東海道朝明・榎撫駅小考」『三重大史学』第12号、三重大学人文学部考古学・日本史・東洋史研究室、2012年3月31日、11頁、CRID 1050001202937132288 
  5. ^ 四日市市教育委員会 2011, p. 5,6.
  6. ^ a b c 四日市市教育委員会 2011, p. 7.
  7. ^ 四日市市教育委員会 2011, p. 9,31.
  8. ^ 四日市市教育委員会 2011, p. 9.
  9. ^ 四日市市教育委員会 2011, p. 15,33,34.
  10. ^ 四日市市教育委員会 2011, p. 22.
  11. ^ 石毛彩子 (2010). “久留倍遺跡の正倉院”. 栄原永遠男編『日本古代の王権と社会』(塙書房). https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000011020698-00. 
  12. ^ 四日市市教育委員会 2011, p. 33,36,37.
  13. ^ 『久留倍官衙遺跡』(リーフレット)
  14. ^ 久留倍官衙遺跡公園が完成 11月にオープン 四日市:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2020年12月12日閲覧。
  15. ^ 国史跡「久留倍官衙遺跡」整備公園が1日開園 四日市:中日新聞Web”. 中日新聞Web. 2020年12月12日閲覧。

参考文献

  • 四日市市教育委員会『国指定史跡 久留倍官衙遺跡 伊勢国朝明郡の役所』四日市市教育委員会、2011年11月30日。 
  • 『久留倍官衙遺跡』(リーフレット)、四日市市
リンク[リンク切れ]

外部リンク

  • 久留倍官衙遺跡(四日市市サイト) - 調査報告書、リーフレット等関係資料へのリンクあり。

座標: 北緯35度00分53秒 東経136度38分00秒 / 北緯35.01483度 東経136.63322度 / 35.01483; 136.63322



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