遺構の位置付け
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 19:01 UTC 版)
I期の建物群は、南でなく東を正面とする点が異例であるが、各地の郡衙遺跡との比較や、郡内に他に該当する遺跡がないことから、朝明郡の政庁と考えられている。II期の東西に長い大型建物については、当時「屋」と呼ばれた、土間ないし平地床の倉庫ではないかと考えられている。一方で、聖武天皇の朝明行幸(740年)に際して造られた頓宮だとする説もある。740年の行幸はII期の建物の存続時期と重なることから、聖武の行幸となんらかのかかわりがあった可能性もある。北東の丘陵裾部の建物群については、官衙に付随する館(たち、宿泊施設)や厨(くりや、役人の食事を準備した建物)であった可能性がある。
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