遺構の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/08 18:16 UTC 版)
「豊前街道南関御茶屋跡」の記事における「遺構の概要」の解説
現存の建物は、南北に長い造りで、北から御居間、御次の間、三の間と配される。御居間の改修、また玄関棟の欠損はあるものの、建物全体としては当時の御茶屋の姿が良好に遺存している。屋根には、藩主細川氏の九曜紋をあしらった鬼瓦や軒瓦が葺かれており、建物北には小規模な庭園も造られている。柱も多くは当時のままである。 御茶屋は、「御客屋」とも呼ばれ、文献資料には両様に記載されるが、一般的には「御茶屋」と呼称されていたものと考えられる。誤解されやすいが、決して茶を販売していたわけではなく、武士のための宿泊、休憩施設であった。
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遺構の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 00:34 UTC 版)
「こどもの国 (横浜市)」の記事における「遺構の概要」の解説
1938年に国家総動員法によりこの地を強制的に買収し工事を開始、1941年に旧陸軍の弾薬庫として本格的な使用が始まった。敗戦後は米軍に接収され米軍弾薬庫として引き続き利用された後、1961年に返還された。敷地内に弾薬庫は33か所あったといわれるが、終戦後「こどもの国」開園までにほとんどが埋められたりしており、現在確認できるのは10基のみである。これら遺構は、電気設備等の園内施設に転用されている。現在、旧弾薬庫の内部には原則として立ち入り禁止となっているが、開園記念行事などで一般公開されることもある。 1944年からは学徒動員により、神奈川県立横浜第二中学(現:県立横浜翠嵐高校)の男子学生250人(15歳)、神奈川高等女学校(現:神奈川学園)の女子学生200人(14~15歳)が動員され、薬莢に火薬を詰める「填薬(てんやく)」作業に従事していた。 1944年には学徒動員による移動の際にトラックごと川へ転落する事故が起き、横浜二中の男子学生6名が亡くなった。翌1945年にはゲート近くの広場で弾薬運搬中の爆発事故が起きた。この爆発事故では軍属6名が亡くなり、付近にいた神奈川高女の女学生1名も片足切断の重傷を負った。 こどもの国付近にある住吉神社のそばには横浜二中・横浜翠嵐高校の同窓会より慰霊碑が、入口ゲート付近には神奈川高女の女学生らによって「平和の碑」が立てられている。
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