絵画、イラストとは? わかりやすく解説

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絵画、イラスト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:36 UTC 版)

トーベ・ヤンソン」の記事における「絵画、イラスト」の解説

自画像肖像画 小さい頃からスケッチブック日記家族自分描いたトーベ展示した最初作品自画像で、1933年ヘルシンキ開催されユーモリスト展で発表した。アテネウム時代描いた椅子に座る自画像』(1937年)では、背後の壁に絵がかけられており、イーゼルがあり、画家としてのアイデンティティ強調されている。戦争きっかけ家族から離れた1940年代に最も多数自画像描いており、『毛皮帽子かぶった自画像』(1941年)、『オオヤマネコ襟巻き自画像』(1942年)などがある。画家としての再出発の際にも、手始め自画像初心者Nybörjare)』(1959年)を描いている。1975年最後展示会でも自画像発表した家族友人、パートナー肖像描いた。エヴァ・コニコフの肖像画のように、買い取られないよう高値をつけることもあった。戦争中ヤンソン家を描いた『家族』1942年)という作品もあるが、のちに自分失敗作として評価している。 風刺画ガルム』誌で描いた風刺画人気呼びフィンランドでは一流風刺画家としても知られた。1938年ミュンヘン会議テーマにした絵では、ヒトラー甘やかされ子供になっている1944年ラップランド戦争テーマにした絵では、複数ヒトラーが街で略奪破壊をしている。日本への原子爆弾投下から1年後1946年8月には、核戦争暗示する世界から平和の天使去っていく絵を描いたトーベ作風過激みなされ検閲かかった時もあったが、トーベ自身は『ガルム』の仕事良かった点として、ヒトラースターリンに対して悪態をつけたことを挙げている。『ガルム』の編集者ヘンリー・レイン(フィンランド語版、スウェーデン語版)との仕事良好で、トーベは約24年間この雑誌に関わって表紙画100枚風刺画挿絵500ほど制作した壁画 第二次大戦後のヨーロッパでは、公共空間芸術作品展示するパブリック・アート活動起こったトーベパブリック・アート技法学んでおり、多く依頼受けた1947年ヘルシンキ市庁舎地下2点フレスコ画田舎パーティー』と『都会パーティー』、1949年にはフィンランド南部コトカ幼稚園で7メートル壁画描いたほか、レストラン社員食堂工場ホテル学校小児科病院などで制作した最盛期1953年で、その後70歳になって描いた。『田舎パーティー』と『都会パーティー』には、当時恋人ヴィヴィカとトーベ自身モデルにした人物、そして小さなムーミン描いた文芸作品挿絵 1958年ルイス・キャロルの『スナーク狩り』のスウェーデン語版挿絵描いたトーベはこの作品難解だけれど面白いと評価し原作の詩だけを読み、他の挿絵参考にせずに制作した1965年キャロル『不思議の国のアリス』挿絵依頼されると、トーベ素晴らし物語だと評価してホラー仕立てにする提案をした。トーベキャロル作品にはホラー的な要素があると考えていたが、出版社反対された。1961年にはトールキンの『ホビットの冒険』のスウェーデン語版挿絵描いた。これはアストリッド・リンドグレーンからの依頼きっかけだった。トーベトールキン作品にもホラー要素見出して魅力的だ考えたが、トーベ表紙案は子供向けではないと出版社反対し、修正応じたできあがった本は結果的に注目されず、後年挿絵批判受けたトーベは、他の作家挿絵なら誰の作品描きたいかという質問で、エドガー・アラン・ポー答えている。 抽象画 1960年代画家として再出発をした際は、自然主義的な写実画から次第変化していった。1950年代から1960年代フィンランドでは抽象絵画流行しており、1961年国際展ではほとんどがアンフォルメル作品の中で、トーベ静物画出展した写実画のスタイル保ちつつも、次第抽象化進めていった。積極的に個展開き1960年から1970年までに5回の個展1回共同展を行った

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絵画、イラスト

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トーベ・ヤンソン」の記事における「絵画、イラスト」の解説

椅子に座る自画像』(1937年) 『青いヒヤシンス』(1939年Blå hyacint) 『自画像煙草を吸う娘』(1940年självporträtt, Rökande flicka) 『毛皮帽子かぶった自画像』(1941年Självporträtt med skinnmössa) 『オオヤマネコ襟巻き自画像』(1942年、Loboa) 『家族』1942年Familien) 『田舎パーティー』『都会パーティー』(連作1947年Fest på landet, Fest i stan) 『暖かいストーブのそばで』(1953年) 『初心者』(1959年Nybörjare) 『二脚椅子』(1960年、Stolar) 『嵐』(1963年Storm) 『風化』(1965年、Förvittring) 『風力階級八級』(1966年、Åtta beaufort) 『自画像』(1975年Självporträtt) 『グラフィックデザイナー』(1975年、Grafikern) - トゥーリッキを描いた作品 雑誌ガルム英語版)』(1929年-1953年文芸書挿絵 ルイス・キャロルスナーク狩り』(1958年ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』1965年J・R・R・トールキンホビットの冒険』(1961年

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絵画・イラスト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:33 UTC 版)

世紀末ウィーン」の記事における「絵画・イラスト」の解説

ウィーン分離派」も参照 美術では、アカデミックな芸術家団体クンストラーハウス(ドイツ語版)の保守性嫌った人々によって結成されウィーン分離派ゼツェシオン)のグスタフ・クリムト1862年 - 1918年)が特に有名である。ウィーン代表的な画家として名声得ていたクリムト1894年ウィーン大学大講堂天井画受注したが、その大胆象徴主義的な作品無理解厳し非難攻撃さらされた。「分離派」とは、19世紀歴史絵画からの分離めざしたドイツ語圏の芸術家動きで、ウィーンではクリムト会長として1897年誕生した。翌1898年第1回ウィーン分離派展が開催され、その開会式には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世直々に訪れている。同じ年、分離派機関誌として発刊され月刊「ヴェル・サクルム(英語版)」(ラテン語で「聖なる春」の意)の創刊号には以下のような理念記された。 われわれはもはや「大芸術」と「小芸術」の相違知らない富者のための芸術貧者のための芸術との相違知らない芸術公共のための富である。 官能的なテーマ数多く描いたクリムト作品は、甘美妖艶なエロス発散していると同時に、常に死の影がある評されるクリムトは、正式に結婚せず洋裁師のエミーリエ・フレーゲ(ドイツ語版)と同居し、あえてそれを隠そうともしない奔放な生き方送り結婚前アルマはじめ多く女性かかわりをもった。クリムトエロスことのほか重視したのは、彼にとって女性性的対象であると同時に崇拝対象でもあったからだといわれている。一方、ショースキーは、彼の全作品わたって社会側面がそぎ落とされていると指摘している。 オルブリッヒ設計セセッション館詳細後述)の地階壁画『ベートーヴェン・フリース』は、1902年ベートーヴェンテーマとして開かれた第14回分離派展のために、クリムトが第9交響曲聴いて造形したものとされる大団円となる第3壁面右側壁面)は、いわばフリードリヒ・フォン・シラーの詩とベートーヴェン音楽、そしてクリムトの絵による「総合芸術」が企図されたものであったまた、クリムト1898年以降、特に1910年以降専ら風景画描いており、その作品人物画のもつ様式美とは異なり激しい無限への衝動犯しがたい品格感じさせるのであるとの評価がある。これについては、注文による肖像画には存在する気遣い忖度風景画場合不要で、それが純粋に描く喜びとなって心身癒しとなったではないかとも推察されている。 ウィーン分離派加わった人物としてデザイナーコロマン・モーザー1868年 - 1918年)がおり、グラフィック絵画のみならず工芸など多方面活躍した詳細後述)。モード世界でも有名で、週刊雑誌『ウィーン・モード』を主宰しとりわけ女性衣装詳しかった1900年、彼はウィーン美術学校教授就任し1903年にはヨーゼフ・ホフマンとともにウィーン工房立ち上げた後述)。1908年、モーザーは帝国郵政省よりフランツ・ヨーゼフ1世皇帝在位60周年記念切手シリーズデザイン依頼受けている。 分離派に加わらなかった若手としては、ウィーンに近いトゥルン・アン・デア・ドナウ(ドイツ語版出身20世紀初頭に活躍したエゴン・シーレ1890年 - 1918年)がいる。かれはクリムト画風から影響受けたとされ、鋭い描線によるエロティック絵画多数のこしたが、クリムト比較する表現主義傾向が強い。シーレ1906年ウィーン美術学校入学試験合格したが、若くしてデッサン熟達し消しゴムを必要としたり使ったことが一切なかったといわれている。1909年美術展名を得るに至る19歳までの間、シーレオスカー・ココシュカ数回会ったものの冷淡に対応され、批評家も彼をクリムト亜流にすぎない無視した。しかし、実際に絵を見せ訪れたクリムトからは、「私に才能ありますか」と問うたシーレ対し、「あるとも、大ありだよ」と激励されたという。1912年、彼は少女対す性的虐待容疑逮捕され24日拘留されて、禁固3日の刑を受けたが、少女最初法廷での証言撤回したため淫行罪は成立しなかった。シーレ作品は、人体鋭く屈曲しプロポーションはげしく歪んでいるが、こうした表現様式確立したのは、この件があった頃までと考えられる1915年、彼はエーディス・ハルムスと結婚したどのような感情身体表現できる信じていたシーレは、繰り返し描かれ自画像含め衣装はぎとった赤裸々男女の像を描いた一方彼の風景画作品には「町」「家」「窓」描写したものが多いことも指摘されている。 若い頃にはウィーン工房参加したものの終生独自の道を歩んだ画家として、『ヴァルデンの肖像』(1910年)やアルマ・マーラーとの愛欲描いた風の花嫁』(1914年)で知られるオスカー・ココシュカ1886年 - 1980年)がいる。ボヘミアのベッヒラルンという小さな金細工職人息子として生まれたココシュカは、その20代半ばで、一方で早熟天才として高く評価され一方では手のつけられない反逆児、「大野人」だと見なされていた。彼の作品は、表現主義傾向をもつとされることが多く時空越えた一種混沌態とそこにおける苦悩描かれているといわれている。ココシュカ肖像画多く残したが、風景画にも傑作多くドラマ戯曲美術エッセイなど発表した。休むことなき表現者である彼は、自身を「私はジプシーである」と述べている。 『青騎士』の運動参加したアルフレート・クービン(英語版)(1877年 - 1959年)は画家であると同時に詩人である。近代文明嫌悪して隠棲し、生涯にわたって心の闇描いたとされる。かれはやがて出現するシュルレアリスムの先駆者といわれることがある。 なお、文学音楽医学などの分野比較すれば美術・建築分野でのユダヤ人割合はさほど高いものではない。上述したクリムトシーレココシュカコロマン・モーザーなどの画家イラストレーター、あるいは後述するオットー・ワーグナーヨーゼフ・ホフマンヨゼフ・マリア・オルブリッヒアドルフ・ロースといった建築家はいずれも非ユダヤ人である。 しかし、ウィーン近代アート支援してきたパトロン圧倒的にユダヤ系人々多かったことが指摘されている。後述するカール・ウィトゲンシュタインやフリッツ・ヴェルンドルファーのほか、モーザーを支援したカール・フェルディナンド・マウトナー=マルホフ、シーレ作品収集したハインリヒ・リーガー、ロース施主となったレオポルド・ゴルドマンなどがおり、美貌知られクリムト肖像画のモデルにもなったゼレーナ・レーデラー(ドイツ語版)(旧姓ピューリッツァー)は、1918年クリムトの死ののち画廊自動車乗り付け、そこで展示されていたクリムト遺作200点をすべて言い値購入した。レーデラー家はまた、ウィーン大学拒否されクリムト天井画群のほか、彼の絵画作品デッサン数多く購入している。ウィーンではこれほどまでにユダヤ系パトロン存在大きかったのは何故なのかについては、十分な解明なされているとは言い難いが、ひとつにはベルリンなどでは国立美術館近代アート支援していたのに対しウィーンでは市や国からの援助乏しくいきおい私的な支援に頼らざるを得なかったという事情も影響していると考えられるクリムト:美術史美術館装飾画(部分1891年クリムト医学』(1899-1907) クリムトユディトI(英語版)』1901年 クリムトブナI』1902年 クリムト水蛇1904年 クリムト接吻1908年 クリムトアデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I1907年 クリムトガルダ湖マルチェージネの街』1913年 クリムト死と生1915年 モーザー:エンブレム草案)「オーストリア芸術家協会1897年 モーザー:ポスターオーストリア絵入り新聞1900年 モーザー『牡丹ポピーのある庭』1907-1910年 モーザー『自画像1914年 モーザー『洞窟ビーナス1915年 シーレ無題』(トリエステにて)1907年 シーレ胎児と女』1910年 シーレほおずき実のある自画像1912年 シーレ死と乙女1915年 シーレ立っている画家の妻の肖像1915年 シーレ死んだ町』1918年 シーレ『家族』1918年 クービン『飲み込まれ過去1901年 クービン『誕生瞬間1902年

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