絵画、イラスト
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自画像、肖像画 小さい頃からスケッチブックや日記に家族や自分を描いた。トーベが展示した最初の作品は自画像で、1933年のヘルシンキで開催されたユーモリスト展で発表した。アテネウム時代に描いた『藤の椅子に座る自画像』(1937年)では、背後の壁に絵がかけられており、イーゼルがあり、画家としてのアイデンティティが強調されている。戦争をきっかけに家族から離れた1940年代に最も多数の自画像を描いており、『毛皮の帽子をかぶった自画像』(1941年)、『オオヤマネコの襟巻きの自画像』(1942年)などがある。画家としての再出発の際にも、手始めに自画像『初心者(Nybörjare)』(1959年)を描いている。1975年の最後の展示会でも自画像を発表した。 家族や友人、パートナーの肖像も描いた。エヴァ・コニコフの肖像画のように、買い取られないように高値をつけることもあった。戦争中のヤンソン家を描いた『家族』(1942年)という作品もあるが、のちに自分で失敗作として評価している。 風刺画 『ガルム』誌で描いた風刺画は人気を呼び、フィンランドでは一流の風刺画家としても知られた。1938年のミュンヘン会議をテーマにした絵では、ヒトラーが甘やかされた子供になっている。1944年のラップランド戦争をテーマにした絵では、複数のヒトラーが街で略奪や破壊をしている。日本への原子爆弾投下から1年後の1946年8月には、核戦争を暗示する世界から平和の天使が去っていく絵を描いた。 トーベの作風は過激とみなされて検閲にかかった時もあったが、トーベ自身は『ガルム』の仕事で良かった点として、ヒトラーやスターリンに対して悪態をつけたことを挙げている。『ガルム』の編集者ヘンリー・レイン(フィンランド語版、スウェーデン語版)との仕事も良好で、トーベは約24年間この雑誌に関わって表紙画を100枚、風刺画や挿絵を500枚ほど制作した。 壁画 第二次大戦後のヨーロッパでは、公共空間に芸術作品を展示するパブリック・アートの活動が起こった。トーベはパブリック・アートの技法を学んでおり、多くの依頼を受けた。1947年にヘルシンキ市庁舎の地下に2点のフレスコ画『田舎のパーティー』と『都会のパーティー』、1949年にはフィンランド南部のコトカの幼稚園で7メートルの壁画を描いたほか、レストラン、社員食堂、工場、ホテル、学校、小児科病院などで制作した。最盛期は1953年で、その後70歳になっても描いた。『田舎のパーティー』と『都会のパーティー』には、当時の恋人ヴィヴィカとトーベ自身をモデルにした人物、そして小さなムーミンも描いた。 文芸作品の挿絵 1958年にルイス・キャロルの『スナーク狩り』のスウェーデン語版の挿絵を描いた。トーベはこの作品を難解だけれど面白いと評価し、原作の詩だけを読み、他の挿絵を参考にせずに制作した。1965年にキャロルの『不思議の国のアリス』の挿絵を依頼されると、トーベは素晴らしい物語だと評価してホラー仕立てにする提案をした。トーベはキャロルの作品にはホラー的な要素があると考えていたが、出版社に反対された。1961年にはトールキンの『ホビットの冒険』のスウェーデン語版の挿絵を描いた。これはアストリッド・リンドグレーンからの依頼がきっかけだった。トーベはトールキンの作品にもホラーの要素を見出して魅力的だと考えたが、トーベの表紙案は子供向けではないと出版社が反対し、修正に応じた。できあがった本は結果的に注目されず、後年に挿絵は批判も受けた。トーベは、他の作家の挿絵なら誰の作品を描きたいかという質問で、エドガー・アラン・ポーと答えている。 抽象画 1960年代に画家として再出発をした際は、自然主義的な写実画から次第に変化していった。1950年代から1960年代のフィンランドでは抽象絵画が流行しており、1961年の国際展ではほとんどがアンフォルメルの作品の中で、トーベは静物画を出展した。写実画のスタイルを保ちつつも、次第に抽象化を進めていった。積極的に個展を開き、1960年から1970年までに5回の個展と1回の共同展を行った。
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『藤の椅子に座る自画像』(1937年) 『青いヒヤシンス』(1939年、Blå hyacint) 『自画像、煙草を吸う娘』(1940年、självporträtt, Rökande flicka) 『毛皮の帽子をかぶった自画像』(1941年、Självporträtt med skinnmössa) 『オオヤマネコの襟巻きの自画像』(1942年、Loboa) 『家族』(1942年、Familien) 『田舎のパーティー』『都会のパーティー』(連作。1947年、Fest på landet, Fest i stan) 『暖かいストーブのそばで』(1953年) 『初心者』(1959年、Nybörjare) 『二脚の椅子』(1960年、Stolar) 『嵐』(1963年、Storm) 『風化』(1965年、Förvittring) 『風力階級八級』(1966年、Åtta beaufort) 『自画像』(1975年、Självporträtt) 『グラフィックデザイナー』(1975年、Grafikern) - トゥーリッキを描いた作品 雑誌 『ガルム(英語版)』(1929年-1953年) 文芸書挿絵 ルイス・キャロル『スナーク狩り』(1958年) ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(1965年) J・R・R・トールキン『ホビットの冒険』(1961年)
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絵画・イラスト
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「ウィーン分離派」も参照 美術では、アカデミックな芸術家団体クンストラーハウス(ドイツ語版)の保守性を嫌った人々によって結成されたウィーン分離派(ゼツェシオン)のグスタフ・クリムト(1862年 - 1918年)が特に有名である。ウィーンの代表的な画家として名声を得ていたクリムトは1894年にウィーン大学大講堂の天井画を受注したが、その大胆で象徴主義的な作品は無理解や厳しい非難、攻撃にさらされた。「分離派」とは、19世紀の歴史絵画からの分離をめざしたドイツ語圏の芸術家の動きで、ウィーンではクリムトが会長として1897年に誕生した。翌1898年、第1回のウィーン分離派展が開催され、その開会式には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が直々に訪れている。同じ年、分離派の機関誌として発刊された月刊「ヴェル・サクルム(英語版)」(ラテン語で「聖なる春」の意)の創刊号には以下のような理念が記された。 われわれはもはや「大芸術」と「小芸術」の相違を知らない。富者のための芸術と貧者のための芸術との相違を知らない。芸術は公共のための富である。 官能的なテーマを数多く描いたクリムトの作品は、甘美で妖艶なエロスを発散していると同時に、常に死の影があると評される。クリムトは、正式に結婚せずに洋裁師のエミーリエ・フレーゲ(ドイツ語版)と同居し、あえてそれを隠そうともしない奔放な生き方を送り、結婚前のアルマはじめ多くの女性とかかわりをもった。クリムトがエロスをことのほか重視したのは、彼にとって女性は性的対象であると同時に崇拝の対象でもあったからだといわれている。一方、ショースキーは、彼の全作品にわたって社会の側面がそぎ落とされていると指摘している。 オルブリッヒ設計のセセッション館(詳細後述)の地階の壁画『ベートーヴェン・フリース』は、1902年にベートーヴェンをテーマとして開かれた第14回分離派展のために、クリムトが第9交響曲を聴いて造形したものとされる。大団円となる第3壁面(右側の壁面)は、いわばフリードリヒ・フォン・シラーの詩とベートーヴェンの音楽、そしてクリムトの絵による「総合芸術」が企図されたものであった。また、クリムトは1898年以降、特に1910年以降は専ら風景画を描いており、その作品は人物画のもつ様式美とは異なり、激しい無限への衝動と犯しがたい品格を感じさせるものであるとの評価がある。これについては、注文による肖像画には存在する気遣いや忖度が風景画の場合は不要で、それが純粋に描く喜びとなって、心身の癒しとなったのではないかとも推察されている。 ウィーン分離派に加わった人物としてはデザイナーのコロマン・モーザー(1868年 - 1918年)がおり、グラフィック・絵画のみならず工芸など多方面で活躍した(詳細後述)。モードの世界でも有名で、週刊雑誌『ウィーン・モード』を主宰し、とりわけ女性の衣装に詳しかった。1900年、彼はウィーン美術学校の教授に就任し、1903年にはヨーゼフ・ホフマンとともにウィーン工房を立ち上げた(後述)。1908年、モーザーは帝国郵政省よりフランツ・ヨーゼフ1世の皇帝在位60周年記念切手シリーズのデザインの依頼を受けている。 分離派に加わらなかった若手としては、ウィーンに近いトゥルン・アン・デア・ドナウ(ドイツ語版)出身で20世紀初頭に活躍したエゴン・シーレ(1890年 - 1918年)がいる。かれはクリムトの画風から影響を受けたとされ、鋭い描線によるエロティックな絵画を多数のこしたが、クリムトと比較すると表現主義的傾向が強い。シーレは1906年にウィーン美術学校の入学試験に合格したが、若くしてデッサンに熟達し、消しゴムを必要としたり使ったことが一切なかったといわれている。1909年の美術展で名を得るに至る19歳までの間、シーレはオスカー・ココシュカと数回会ったものの冷淡に対応され、批評家も彼をクリムトの亜流にすぎないと無視した。しかし、実際に絵を見せに訪れたクリムトからは、「私に才能はありますか」と問うたシーレに対し、「あるとも、大ありだよ」と激励されたという。1912年、彼は少女に対する性的虐待の容疑で逮捕され、24日間拘留されて、禁固3日の刑を受けたが、少女が最初の法廷での証言を撤回したため淫行罪は成立しなかった。シーレの作品は、人体が鋭く屈曲し、プロポーションもはげしく歪んでいるが、こうした表現様式が確立したのは、この件があった頃までと考えられる。1915年、彼はエーディス・ハルムスと結婚した。どのような感情も身体で表現できると信じていたシーレは、繰り返し描かれた自画像を含め、衣装をはぎとった赤裸々な男女の像を描いた。一方、彼の風景画作品には「町」「家」「窓」を描写したものが多いことも指摘されている。 若い頃にはウィーン工房に参加したものの終生独自の道を歩んだ画家として、『ヴァルデンの肖像』(1910年)やアルマ・マーラーとの愛欲を描いた『風の花嫁』(1914年)で知られるオスカー・ココシュカ(1886年 - 1980年)がいる。ボヘミアのベッヒラルンという小さな村で金細工職人の息子として生まれたココシュカは、その20代半ばで、一方では早熟の天才として高く評価され、一方では手のつけられない反逆児、「大野人」だと見なされていた。彼の作品は、表現主義的傾向をもつとされることが多く、時空を越えた一種の混沌状態とそこにおける苦悩が描かれているといわれている。ココシュカは肖像画も多く残したが、風景画にも傑作が多く、ドラマや戯曲、美術エッセイなども発表した。休むことなき表現者である彼は、自身を「私はジプシーである」と述べている。 『青騎士』の運動に参加したアルフレート・クービン(英語版)(1877年 - 1959年)は画家であると同時に詩人である。近代文明を嫌悪して隠棲し、生涯にわたって心の闇を描いたとされる。かれはやがて出現するシュルレアリスムの先駆者といわれることがある。 なお、文学、音楽、医学などの分野に比較すれば、美術・建築の分野でのユダヤ人の割合はさほど高いものではない。上述したクリムト、シーレ、ココシュカ、コロマン・モーザーなどの画家やイラストレーター、あるいは後述するオットー・ワーグナー、ヨーゼフ・ホフマン、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ、アドルフ・ロースといった建築家はいずれも非ユダヤ人である。 しかし、ウィーンの近代アートを支援してきたパトロンは圧倒的にユダヤ系の人々が多かったことが指摘されている。後述するカール・ウィトゲンシュタインやフリッツ・ヴェルンドルファーのほか、モーザーを支援したカール・フェルディナンド・マウトナー=マルホフ、シーレ作品を収集したハインリヒ・リーガー、ロースの施主となったレオポルド・ゴルドマンなどがおり、美貌で知られ、クリムトの肖像画のモデルにもなったゼレーナ・レーデラー(ドイツ語版)(旧姓ピューリッツァー)は、1918年のクリムトの死ののち画廊に自動車で乗り付け、そこで展示されていたクリムトの遺作約200点をすべて言い値で購入した。レーデラー家はまた、ウィーン大学に拒否されたクリムトの天井画群のほか、彼の絵画作品やデッサンを数多く購入している。ウィーンではこれほどまでにユダヤ系パトロンの存在が大きかったのは何故なのかについては、十分な解明がなされているとは言い難いが、ひとつにはベルリンなどでは国立の美術館も近代アートを支援していたのに対し、ウィーンでは市や国からの援助が乏しく、いきおい私的な支援に頼らざるを得なかったという事情も影響していると考えられる。 クリムト:美術史美術館の装飾画(部分、1891年) クリムト『医学』(1899-1907) クリムト『ユディトI(英語版)』1901年 クリムト『ブナの林I』1902年 クリムト『水蛇』1904年 クリムト『接吻』1908年 クリムト『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』1907年 クリムト『ガルダ湖とマルチェージネの街』1913年 クリムト『死と生』1915年 モーザー:エンブレム(草案)「オーストリア芸術家協会」1897年 モーザー:ポスター「オーストリア絵入り新聞」1900年 モーザー『牡丹とポピーのある庭』1907-1910年 モーザー『自画像』1914年 モーザー『洞窟のビーナス』1915年 シーレ『無題』(トリエステにて)1907年 シーレ『胎児と女』1910年 シーレ『ほおずきの実のある自画像』1912年 シーレ『死と乙女』1915年 シーレ『立っている画家の妻の肖像』1915年 シーレ『死んだ町』1918年 シーレ『家族』1918年 クービン『飲み込まれた過去』1901年 クービン『誕生の瞬間』1902年
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