後年の評価
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次々とアクシデントが起こり続ける展開にアラも目立つが、各方面より高い評価を受けている。 『キネマ旬報』は2002年7月の本作DVD発売にあたり、『新幹線大爆破』を「和製パニック映画の最高峰」と紹介し、「『新幹線大爆破』以降も、何本も和製パニック映画が製作されたが、出演陣の豪華さ、内容の面白さで、この作品以上のものは出ていない」と評している。 石上三登志も『ミステリマガジン』2008年11月号で、同様に『新幹線大爆破』を「和製パニック映画の最高峰」と評している。 関根勤が本作の大ファンで、TBSラジオ『コサキンDEワァオ!』で関根が、青木(千葉真一)と倉持(宇津井健)の一人二役ものまねを披露した(倉持「青木君、車を停めるんだっ!」青木「何を言ってるんですかぁっ!」)。同じネタがDVD『カマキリ伝説2』に収録されている。 杉作J太郎は「大作映画は俺の印象では20対19のスコアのカープ対ドラゴンズ。野手はモチロン投手に至るまで、ベンチ入りしてる選手は全員出場。佐々岡のあとに前間が出てきたり、翌日の試合のことは考えず、やたら点が入ってハデだが試合内容は褒められない。俺はそ~した騒ぎが面白くてたまらないクチで、俺の論旨としてはそれが『新幹線大爆破』ということになる。これは東映が突然世に問うたパニック超大作であった。すでにテレビの時代と見なされていたかもしれないが、テレビドラマでは到底不可能な豪華キャストだった。俺は指折り数えて公開日を待ったものだ。その中で注目すべきが志穂美悦子だった。当時の志穂美はそれは若者の憧れの的で、俺もブロマイドショップで彼女の写真を買い漁っていたのであった。さてところが、フタを開けてビックリの『新幹線大爆破』の志穂美は何と電話交換手。冒頭、わずか3秒の出演。ポスターには空手のポーズで載っていたのに...。俺も青かった。どういう形でこの電話交換手が物語にリンクしてくるのか、新幹線の中で暴漢が暴れ始め、その鎮圧に『誰か武道のたしなみのある者はおらんかね?』『ハイ、私、空手やります!』と志穂美が挙手して新幹線に乗り込んで来るのか? あれやこれや想像しつつ、多岐川裕美がどこに出てるか分からないままエンディングになった。いや~これが大作というものなんだろうなァと大満足の映画でした」などと評している。 『星の金貨』などの脚本家・龍居由佳里は1975年、高校在学時に父が東映で美術の仕事をしていた友人と新宿東映で封切時に観て大興奮し、「私、東映に入って映画作る仕事がしたい!どうすれば入れるかお父さんに聞いて!」とその友人に迫った。友人がちゃんと父親に聞いてくれて、その人から「東映は女性の現場スタッフを採らない」などと聞き、東映への就職は諦めた。結局、スタッフを募集していたにっかつ撮影所に就職したが、今も「『新幹線大爆破』を観て感動し、映像の仕事に就きたいと思いました」と言うと、龍居の作風のイメージと合致せず、たいてい驚かれるという。 ウルトラシリーズなどの脚本家・川上英幸も「中学の頃、『新幹線大爆破』をテレビで初めて見て、その面白さに吸い込まれ、映画とは恐ろしいものだと寒気すら感じた」と話し、特に運転士・千葉真一と総合指令職員・宇津井健の熱いやりとりに感激し、将来的に新幹線に関わる仕事がしたいと昭和鉄道高等学校に進学した。しかし在学中に国鉄の民営化があり、旧国鉄は新人の入社をストップさせ目の前が真っ暗になった。やる気をなくし、学校が池袋にあったため、学校をさぼり文芸坐に入り浸るようになった。当時は家庭用ビデオが普及し始めの頃だったが、文芸坐は学割600円で二本立てが観られた。高校を卒業し、印刷ショップに就職した後、ビデオレンタルショップの店長に転職。23歳の時、ぴあの作家募集に応募したことが切っ掛けで脚本家になった。「人生とは実に不思議なものだ。あのとき『新幹線大爆破』を見ていなければ、今の私はいないし、そう思うと罪作りな映画だと思う。金を儲けたいならもっと多くの職業があったが、その選択を人生から外されてしまったからである」などと述べている。 2015年の映画『天空の蜂』の脚本家・楠野一郎は、『天空の蜂』脚本化にあたり、エンターテイメントとメッセージ性の両立を目指して、本作を目標の一本として脚色した」と述べている。 中村倫也は高校時代に年間100本映画を見ていたと話し、最も感銘を受けた映画として『太陽を盗んだ男』と本作『新幹線大爆破』を挙げている。『新幹線大爆破』については「今の時代では実現が難しいスケール感が圧巻。こんな作品に出てみたい」などと話している。 押井守は「日本映画が日本の戦後にケンカを売った最後の映画」と評している。
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後年の評価
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山縣は、政党政治否定、藩閥政治推進、社会運動弾圧の代表的人物として、歴史家から大きなマイナスの評価を与えられてきた。1961年に『山県有朋』を著した藤村道生は山縣が北清事変を「侵略の絶好の機会と見た」と表現し、「日本に比類のない軍国主義体制を作ることに成功し」「(山縣による官僚・軍閥が)日本を支配し続け、やがて暗黒の太平洋戦争に引きずり込む」と山縣と太平洋戦争を直接的に結びつけた表現をとっている。有馬学は明治から平成中期までになされた山縣論を分析して、山縣が個人的なパーソナリティーや政治姿勢およびその実像とは離れたところで、「近代日本の暗部」であり「否定されるべき存在」として「象徴化」「記号化」されて語られてきたとする。また有馬は明治末期から山縣の死の前後まで「否定の対象」として語られていた山縣が、大正11年の死から昭和戦前期にかけて「否定の対象としても忘れ去られ」、第二次大戦後の軍国主義批判の中で批判的にとらえられ、「軍国主義者」「帝国主義者」「反動」「ファシスト的」「巨魁山縣有朋」など著しくマイナスの評価を与えられ続けたと指摘している。 また巨大な山縣閥を維持したことは「山縣自身の権力欲」にあるとみる向きも多く、鵜崎鷺城の言説以来藤村道生、岡義武らの研究者にも受け継がれている。伊藤之雄は、山縣の主観では信念によって権力を維持し、周囲毀誉褒貶を聞かない「愚直」な人間であったと評している。 近年では別の視点から山縣の実像に迫る分析がジョージ・アキタ(George Akita)、伊藤隆らにより試みられている。伊藤隆は山縣について、下関戦争や三国干渉の苦い経験を経て列強への警戒感をもち続け、欧米人対アジア人の「人種戦争」を憂慮する「日中提携論者」であり、アメリカとも対立すべきでないと説く「外交的にきわめて慎重な姿勢」をとり続けた政治家であり、従来の軍国主義的イメージとは異なる人物だったと評している。伊藤之雄は日露戦争・シベリア出兵・北清事変において山縣が列強の意向を確認する慎重な動きをみせたことと、陸軍全体の統制を重視したことを指摘し、太平洋戦争への道は山縣の理想や精神を忘れた後継の軍人達によって開かれたとしている。
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後年の評価
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鄭來僑は「“종기를 절개해 치료하는 방법은 백태의(白太醫)로부터 시작된 것”」(沸騰を用いて患部を切開して治療する方法は、白医師(白太醫)から始まった)と評している。 張志淵は「“우리 나라의 결렬의 법(상처를 찢어 치료하는 법)이 백태의로부터 시작하였다”」(私たちの国の外科手術法(傷を引き裂く治療する方法)は白医師から始まった)と白光炫は手術の権威として評している。
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「ベルナール・フォントネル」の記事における「後年の評価」の解説
フランス文学史上、フォントネルは2つのたいへん異なる時代を繋ぐ仲介の役割を果たしている。すなわち、コルネイユ、ラシーヌ、ボワローらの時代から、ヴォルテール、ダランベール、ディドロらの時代である。これはフォントネルが長命だったためばかりではなく、17世紀の才人たちとも18世紀の哲学者たちとも相通ずるところがあったからである。ただしどちらかといえば彼は後者の時代に近かった。 フォントネルの才能は疑う余地がない。しかし、サント=ブーヴも述べているように(『月曜閑談』第3巻)、フォントネルが「限りなく卓越した精神の持ち主の一人」に数えられるのが確かだとしても、知性というよりは聡明さが特徴であり、多くのことを言うよりは少しのことを上手に言うことに長けていた。人間としては非情であったとも伝えられている。 フォントネルの著作集は数回編纂されている。最初の著作集は、ハーグで1728年から1729年にかけて編纂された3巻本であった。最も優れた版は、1790年にパリで編纂された8巻本の著作集である。『世界の複数性についての対話』などのいくつかの作品は何度も再版され、様々な言語に翻訳された。
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後年の評価
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ドリルは、啓蒙思想の時代を生きた詩人であった。この時代の詩作はその後の文学史研究の上で永らくあまり顧みらなかったが、1974年にエドゥアール・ギトン (Édouard Guitton) が『Jacques Delille (1738−1813) et le poème de la nature en France de 1750 à 1820』を刊行して以降は、初期のロマン主義に連なるものとして、ドリルをはじめとしてこの時代の詩人たちの再評価が進んだ。
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後年の評価
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「ウィリアム・インブリー」の記事における「後年の評価」の解説
中島耕二は『近代日本の外交と宣教師』において、ウィリアム・インブリーが歴代訪日宣教師の中で最も明治期の日本の政治・外交と関わりを持った宣教師であったにも関わらず、ほとんど研究対象になってこなかったため、彼に関する文献は関係者の思い出話などの新聞・雑誌記事を除き、管見の限りわずかに井深梶之助とウエンライトによる追悼文があるのみだと述べている。日本基督一致教会の正史である山本秀煌の『日本基督教会史』(1915年)で語られることが極めて少なく、日本のプロテスタント史研究の基本文献である佐波亘の『植村正久と其の時代』(1938年)や小沢三郎の『幕末明治耶蘇教史研究』(1944年)、隅谷三喜男の『近代日本の形成とキリスト教』(1950年)および小沢三郎の『日本プロテスタント史研究』(1964年)と日本プロテスタント史の代表的通史である大内三郎の『日本プロテスタント史』(1970年)や土肥昭夫の『日本プロテスタント・キリスト教史』(1980年)においても彼の業績は一切言及されなかった。 ロバート・ホワイティングは『和をもって日本となす』(1989年)において、インブリーは48年間もの歳月を過ごし、日露戦争時の功績がたたえられて勲章が授けられた親日家としてではなく、悪名高い「インブリー事件」の主人公として、後世にまでその名を残すことになってしまったと述べている。
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後年の評価
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2000年に日本中央競馬会 (JRA) が行った20世紀の名馬選定企画「20世紀の名馬大投票」では、ファン投票により第63位に選出された。また、2004年に同会の広報誌『優駿』誌上で行われた「記憶に残る名馬たち - 個性派ホースベスト10」という企画では、5人の識者による投票で1950年代から1970年代の追い込み馬部門で第1位(ファン投票では部門総合10位)に選出されている。
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後年の評価
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ボブ・ミューゼルは1927年にベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、トニー・ラゼリ、アール・コームス(いずれもアメリカ野球殿堂入り)らとともに、伝説の強力打線「殺人打線(英語版)」(マーダラーズ・ロウ)を形成した。また、ロング・ジョン・ライリー(英語版)(1890年)、ベーブ・ハーマン(1933年)、エイドリアン・ベルトレ(2015年)と並ぶMLBタイ記録のサイクル安打3度を記録している。 カール・フリーロ(英語版)、ウィリー・メイズ、ロベルト・クレメンテ、イチローと並び称されるほどの歴代屈指のストロングアーム(強肩)の持ち主でもあった。『ニューヨーク・タイムズ』は訃報記事において、彼の送球は「百発百中」の精度だったと評した。1921年から1923年までニューヨーク・ジャイアンツを率いたケーシー・ステンゲルは彼以上の素晴らしい送球をする者にはお目にかかれていないと話していた。 ハーヴェイ・フロンメルはその著書の中でミューゼルはチームメイトとの仲が悪く、酒豪で女たらしだったと説明している。監督のミラー・ハギンスは「無関心」と形容していた。しかしながら、ベーブ・ルースとはその対照的な性格にもかかわらず、仲が良かったという。静かで控えめな性格の彼は選手生活の終わり近くまで、新聞のインタビューにもめったに応じなかった。ゴロを打った後に全力疾走することを拒否するなど、怠惰な態度を取ることでも有名だった。 1982年にベテランズ委員会によってアメリカ野球殿堂入り候補者の1人に指名されたが、元コミッショナーのハッピー・チャンドラーと元ジャイアンツ遊撃手のトラビス・ジャクソンが投票で選ばれた。
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後年の評価
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「アメデオ・モディリアーニ」の記事における「後年の評価」の解説
モディリアーニの生涯はジャンヌを含めて半ば伝説化しており、映画化もされている。 『モンパルナスの灯』(1958年) 監督:ジャック・ベッケル、主演:ジェラール・フィリップ、フランス映画 『モディリアーニ 真実の愛』(2004年)監督:ミック・デイヴィス、主演:アンディ・ガルシア、6カ国合作
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