後年の統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/17 15:29 UTC 版)
「ミロシュ・オブレノヴィッチ1世」の記事における「後年の統治」の解説
ミロシュの冷酷で専制的な統治に対してセルビア人はたびたび反乱を起こしたため、ミロシュは1835年に憲法を制定することを承認したが、セルビアの隣国オーストリア、宗主国オスマン帝国およびロシアの3帝国は、憲法は自らの絶対主義的政治形態を脅かすものとみなし、この動向に反発した。とりわけオーストリアのクレメンス・メッテルニヒは、セルビアが独自の国旗を制定し外務省を設置したことを嘲笑した。ロシアとオスマン帝国の要請を受けたミロシュは憲法を廃止した。 1839年に長男のミランに譲位したが、ミランは数週間後に死去したため、次男のミハイロが公位を継承した。ミハイロは1842年に廃位され、一族は権力の座から退いたが、ミロシュは1858年に復位して晩年の2年間在位した。
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