荒川 (関東)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 01:25 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動荒川 | |
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![]() 東京湾に注ぐ荒川
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水系 | 一級水系 荒川 |
種別 | 一級河川 |
延長 | 173.0[1] km |
平均流量 |
30 m³/s (寄居観測所 2002年) |
流域面積 | 2,940[1] km² |
水源 | 甲武信ヶ岳 |
水源の標高 | 2,475 m |
河口・合流先 | 東京湾 |
流域 |
![]() 埼玉県・東京都 |
概要
埼玉県、山梨県、長野県の三県が境を接する甲武信ヶ岳(こぶしがたけ、奥秩父)に源を発し[5]、秩父山地の水を集めながら秩父盆地まで東に流れる。秩父盆地から長瀞渓谷まで北に、その後東に流れて大里郡寄居町で関東平野に出る。熊谷市で南南東に向きを変え、川越市で入間川を併せる。戸田市から再び東流、埼玉・東京の都県境を流れ、北区の新岩淵水門で隅田川を分ける。その後足立区で向きを変えて再び南流し、江東区と江戸川区の区境で東京湾に注ぐ。
源流域を抜けた先から熊谷市までは国道140号及び秩父鉄道秩父本線が、熊谷市から埼玉・東京の県境付近までは国道17号(中山道)・首都高大宮線及びJR東日本高崎線→埼京線(・東北新幹線)が、県境から河口までは首都高中央環状線が、ほぼ並走しており、いずれも重要な幹線となっている。
源流点の定義
この川の源流点は、2つの説がある。一つは、秩父湖の少し上流の滝川と入川の合流地点。もう一つは、上記の様に甲武信ヶ岳の埼玉県側の山腹、標高2,475 mの所にある「真の沢」が源流点という説である。荒川源流の石碑は入川がそれぞれの沢に分かれる地点にある。
一級河川としての荒川
起点は入沢と赤沢の合流点で、ここに「一級河川荒川起点の碑」がある[6]。終点は中川との合流点で、ここに「河口から0 km」のキロポストがある[7]。元々は荒川の河口があった場所であり、周辺の埋め立ての進行に伴い荒川の河川区域が沖合いに向かって伸びて行った[7]。この入沢と赤沢の合流点から中川との合流点までの流路延長173 kmが、一級河川としての荒川である。一方、河川としての流れは「河口」からもしばらく続き、特に右岸は5 kmほど下って若洲海浜公園の突端に至る[7]。
案内標識のローマ字(英語)表記における荒川
国土交通省道路局ではArakawa riverとしており二重表現となっている。これは「地名などの固有名詞はヘボン式ローマ字で、山や川などの普通名詞は英語で表示する。ただし、慣用上固有名詞の一部として切り離せないものについては個別に検討する。」という表記法による。
語源
字の通り、過去に幾度となく荒れ、地域に水害をもたらしたから、「荒川」と呼ばれるようになった[8]。
水位
荒川水系では特殊基準面として中央区新川2丁目地先に設置された霊岸島量水標の最低潮位を基準としている(A.P.(Arakawa Peil))[9]。
道の駅大滝温泉付近より
長瀞町矢那瀬地区より上流方向を望む
正喜橋より下流方向を望む(埼玉県寄居町)
さいたま市を流れる荒川
並流する中川(手前)と荒川(奥)。タワーホール船堀から撮影。
江東区の0.00 km標識から、さらに下流を望む
羽田空港の奥(北)に中央防波堤外側埋立地と荒川河口を望む(定期航空機より)
歴史
荒川は古くから利根川の支流で、関東平野に出た後、現在の熊谷市近辺で利根川と合流していた[10]。利根川の中下流(荒川との合流後)は5000年前頃までは現在の荒川の流路を通ったが、3000年前頃からは現在の加須市方向へ向った後、南流して東京湾(江戸湾)へ注ぐようになった。利根川と荒川は河道が安定せず、また次第に並行した流路となり両者の合流点は下流へ移動した。荒川の名も暴れ川を意味し、有史以来、下流域の開発も遅れていた。
荒川本流が今の綾瀬川を流れていた時代もあるが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流した[11]。江戸時代初期頃は荒川は現在の元荒川の川筋を通り、現在の越谷市・吉川市付近で利根川と合流した。
利根川東遷事業
1629年(寛永6年)に関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるようになった。元の河道は、熊谷市で現在の荒川からは分断されており、地下水湧水(現在は人工揚水)を源流とし、吉川市で中川と合流する元荒川となっている。同時期の工事で利根川は東に瀬替え(利根川東遷事業)して古利根川流路から江戸川の流路を流れるようになった。付け替え後の荒川(元の入間川)は、下流で現在の隅田川の河道を通っていた。この部分は流速が遅く、台風で大雨が降るとしばしば溢れて江戸の下町を水浸しにした。明治時代の調べでは、大雨の際、熊谷市と川口市で最高水位に達する時刻の差が48 - 60時間あった[12]。洪水が人や家を押し流すことはないが、浸水による家屋と農作物の被害は深刻であった。しかし、荒川の河川舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた[13]。
荒川放水路
荒川放水路(あらかわほうすいろ)は、荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。途中、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。
計画に至る過程
1910年(明治43年)8月5日頃から関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめて太平洋上へ抜けた台風と、14日に甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現・隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬県邑楽郡一帯に被害が集中したほか、右岸でも中条堤の破堤によって利根川、荒川の氾濫流は埼玉県を縦断、死者202人、行方不明39人、家屋全壊610戸、家屋流出928戸に及ぶ甚大な被害を引き起した。また、利根川や多摩川水系も含んだ東京府全体の被害総数は、死者41人、行方不明7人、家屋全壊88戸、家屋流出82戸であった[14]。長年豪雨災害によって被害を受けていたこともあり、翌1911年(明治44年)政府は根本的な首都の水害対策の必要性を受け、利根川や多摩川に優先し荒川放水路の建設を決定する。
内務省によって調査、設計の準備を進め、土木技官の青山士らを責任者に用地買収の済んだ箇所から逐次工事に着手したのは1913年(大正2年)のことである。
この用地買収は実に1000ヘクタール、1300戸に及ぶ。これにより、南葛飾郡の大木村、平井村、船堀村の3村が地方自治体としては廃止となり、周辺の町村へ編入されていった。
難工事

結局、この工事は当初の10年という予定期間を大幅に超え、関連工事が完全に完了するまで17年間という歳月を要し、3,200万円あまりの工事費を費やした。これは最初に計上された総予算1,200万円の実に2.5倍に及んだ。さらに総数300万人以上を工事に動員し、出水や土砂崩れなど多くの災害により、30名近くの犠牲者も出した。
工事の大半が手作業であり、蒸気掘削機やトロッコ、浚渫船も実用化されていたものの、油圧ショベルやブルドーザーやダンプカーの様な重機は無かった。また工事中も幾度も台風に襲われ、中でも1917年(大正6年)9月30日の台風では、記録的な高潮に見舞われ、工事用機械や船舶を流出する他、関東大震災では各地の工事中の堤防への亀裂、完成したばかりの橋梁の崩落など枚挙に暇がない。さらに第一次世界大戦に伴う不況・インフレーションも、難工事に拍車をかけた。
完成後
1924年(大正13年)の岩淵水門完成により放水路への注水が開始され、浚渫工事など関連作業が完了したのは1930年(昭和5年)のことである。以後東京は洪水に見舞われることは無くなった。その後も荒川放水路により分断された中川の付け替えや、江戸川放水路の掘削が行われ、ほぼ東京周辺の流路が完成することとなる。
「荒川放水路」は1965年(昭和40年)に正式に荒川の本流とされ、それに伴い岩淵水門より分かれる旧荒川全体が「隅田川」となった。それまでは現在の千住大橋付近までが荒川、それより下流域が隅田川と区別されていた。
また、この部分を横断する鉄道は地下鉄を含め地下(トンネル)ではなく、すべて橋梁で横断している。なお、荒川全体では埼玉高速鉄道線が赤羽岩淵 - 川口元郷間で、新荒川大橋(国道122号)のすぐ西側を唯一地下で抜けている[15]。
治水利水施設
第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)のカスリーン台風により荒川流域は大きな被害を受けた。建設省関東地方建設局(現・国土交通省関東地方整備局)はダムによる洪水調節を図り、二瀬ダムが本川に建設された。1964年(昭和39年)には東京都が記録的な渇水に見舞われ(東京砂漠)、利根川より緊急的に導水を図り対処した。
その後、1965年(昭和40年)に秋ヶ瀬取水堰を建設、さらに荒川水系が水資源開発促進法の指定河川となり、水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)が総合的な水資源開発を行った。この頃、隅田川の水質汚濁が深刻化、メタンガスの沸き出る河川となり、早慶レガッタまでもが中止となった。
水質汚濁を改善すべく、1968年(昭和43年)から利根大堰による導水で、上水道供給と水質改善を図った。また上流部に滝沢ダム、浦山ダム、有間ダム、合角ダムを建設して、洪水調節や上水道を確保し、笹目橋上流に荒川第一調節池を建設して、増水時の洪水調節を行った。
1990年代以降は、公共事業再評価の議論がなされ、都幾川に建設予定だった大野ダムの建設が1995年(平成7年)に中止となり、大洞ダム再開発事業も、代替案と比較検討して事業を継続するかどうか検討されている。
荒川の洪水
荒川はその名前のとおり「荒ぶる川」となり、過去幾度となく洪水による氾濫を繰り返してきた。古くは天安2年(858)、「三大実録」に武蔵国水勞という記述があり、鎌倉時代建仁元年(1201)8月の暴風雨で、下総葛飾郡の海溢れて4,000人余が漂没したことが「吾妻鏡」記されている。 ほかにも、慶長元年(1596)には100年に1度といわれる大洪水、慶長19年(1614)諸国出水、元和3年(1617)入間川洪水、元禄元年(1688)荒川洪水、明治43年には明治以降最大の出水、昭和22年・49年・57年に洪水、平成11年には熊谷水位観測所、治水橋水位観測所において観測開始以来、過去最高となる水位を観測、平成19年には三峰雨量観測所にて総雨量573 mmを記録、熊谷水位観測所では観測開始以来の最高水位を記録している[16]。
将来の水害リスク
2010年代においても、荒川流域で大規模洪水が起きた場合、首都圏の広い地域に被害を及ぼす可能性は依然残っている。関東地方整備局のシミュレーションによると、大雨により赤羽駅近くの堤防が決壊したと想定すると、東京都と埼玉県内の約98平方 kmが浸水し、水は東京都心の丸の内や大手町などにも到達する。全国からポンプ車を集めても、排水には4週間かかる。このため国交省は、企業に事業継続計画(BCP)の策定を呼び掛けている[17]。
高規格堤防整備事業が下流部で行われている。そのほか中流部では堤防の幅を拡幅するさいたま築堤事業が行われている。 また、2018年からは荒川第二・第三調節池の整備事業が始まった。
- ^ a b 荒川[リンク切れ] - 国土交通省 水管理・国土保全局
- ^ “【日本一】鴻巣‐吉見間を流れる荒川の川幅(2,537m)”. 鴻巣市役所 (2016年3月1日). 2018年9月12日閲覧。
- ^ 御成橋 (PDF) - 国土交通省 関東地方整備局、2018年9月12日閲覧。
- ^ “荒川の瀬替え”. 国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所. 2022年5月14日閲覧。
- ^ “DATA荒川”. 国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所. 2009年1月1日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年8月23日閲覧。
- ^ “荒川源流点・起点”. 国土交通省関東地方整備局 荒川上流河川事務所. 2017年11月5日閲覧。
- ^ a b c d “荒川の終点、海との合流点”. 国土交通省関東地方整備局 荒川上流河川事務所. 2017年11月5日閲覧。
- ^ “荒川の概要 | 荒川上流河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局”. www.ktr.mlit.go.jp. 2019年9月5日閲覧。
- ^ “荒川水系隅田川流域河川整備計画”. 東京都. 2021年12月24日閲覧。
- ^ 「先史時代の利根川水系とその変遷」菊地隆男、アーバンクボタ、1981年。
- ^ “流路変遷にまつわる荒川七ふしぎ (PDF)”. 国土交通省 関東地方整備局 (2008年11月12日). 2013年1月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年7月4日閲覧。
- ^ 河野天瑞「荒川鉄橋建築工事報告 第一」、『工学雑誌』48巻。
- ^ 『第19回特別展 戸田河岸と荒川の舟運』5頁 戸田市立郷土博物館発行 2003年10月11日
- ^ 『日本歴史災害事典』吉川弘文館、2012年、ISBN 978-4-642-01468-7、406頁
- ^ このうち東武伊勢崎線がわたる橋梁のトラス部分には「荒川放水路橋梁」と塗られており、荒川放水路時代の名残として見ることが出来る。
- ^ [https://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo_index010.html 国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所 荒川の歴史 洪水の記録
- ^ 荒川で大規模洪水発生なら… 浸水恐れ、都心部でも 関東整備局が想定/中小にBCP策定促す『日本経済新聞』朝刊2017年8月16日(首都圏経済面)
- ^ 『荒川の自然図鑑 荒川の動物』24-32頁。むろん、もっともよく見かける哺乳類はヒトである。
- ^ 『埼玉県動物誌』23-40頁。
- ^ 『埼玉県動物誌』41頁。『さいたま動物記』80頁。
- ^ 磯谷有紀、橋詰直道「河川改修に伴う荒川中流域における堤外地集落の移転」『駒澤地理』第47巻、駒澤大学文学部地理学教室・駒澤大学総合教育研究部自然科学部門、2011年8月、 57-81頁、2016年11月20日閲覧。
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- ^ さいたま橋物語 なんでもデータ (PDF) - 埼玉県ホームページ
- ^ a b c d e f g h i j 秩父市橋梁長寿命化修繕計画 (PDF) p4 - 秩父市
- ^ a b 秩父市橋梁長寿命化修繕計画 (PDF) p5 - 秩父市
- ^ 秩父多摩甲斐国立公園(埼玉県内)の登山道紹介 - 埼玉県、2015年3月20日閲覧。
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- ^ 河川の管轄 - 荒川知水資料館
- ^ 深谷市 長寿命化修繕計画 (PDF) - 深谷市 都市整備部道路管理課(2013年3月)
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- ^ “荒川下流防災施設活用計画〔第四版〕【運用マニュアル概要版】 (PDF)”. 国土交通省 荒川下流河川事務所(荒川下流防災施設運用協議会). p. 18 (2016-01). 2017年4月27日閲覧。
- ^ 『第19回特別展 戸田河岸と荒川の舟運』6-7頁 戸田市立郷土博物館発行 2003年10月11日
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- ^ 東京水辺ライン「水上バスで行こう!オフィシャルサイト
- ^ a b 川に流された息子…助けようとした母親、溺れ死亡 息子は無事 カヌー男性が助けるも母親の意識なく/寄居『埼玉新聞』2018年8月6日
- ^ 荒川大模型173埼玉県立川の博物館
- ^ 荒川知水資料館アモア(2019年6月8日閲覧)。
- 1 荒川 (関東)とは
- 2 荒川 (関東)の概要
- 3 水運
- 4 支流
- 5 流域の観光地
- 6 脚注
- 荒川 (関東)のページへのリンク