背景・経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 15:20 UTC 版)
三国干渉で日本から清に遼東半島を返還させ、清国の負った対日賠償金に対してもいち早く借款供与を申し出て、1895年7月にフランスと共同で借款を決定したロシアは、清に対し見返りを求めた。1896年の5月はじめ、李鴻章はサンクトペテルブルクを訪問、皇帝ニコライ2世の戴冠式に出席して新皇帝と謁見し、ロバノフとヴィッテとの秘密会談に臨んだ。李鴻章は50万ルーブルの賄賂を受け取り、6月3日に条約を結んだ。 日本の脅威に対して相互の安全を共同で守るという安全保障の名目であったが、ロシアはこの条約で満州での駐留や権益拡大を清に承認させることに成功した。ロシアの役人や警察は治外法権を認められ、戦時には中国の港湾使用を認められた。さらにシベリア鉄道の短絡線となる東清鉄道を清領内(北満の西端の満洲里(マンチュリー)から北満東端の黒竜江省綏芬河(ポクラニチナヤ)まで)に敷設する権利も認めさせた。東清鉄道は名目上は共同事業だったが、実際には出資も管理も全てロシアが行った。清はロシア軍の部隊移動や兵站を妨害することができず、ロシアに対して大幅に割り引いた関税率を認めさせられた。またロシアは鉄道建設に必要な土地の管理権を得たのみならず、密約を拡大解釈して排他的行政権も手にし、鉄道から離れた都市や鉱山も「鉄道附属地」としてその支配下に置いた。 なお、ロバノフはほぼ同時にニコライ2世の戴冠式に参列した日本の山縣有朋とも山縣・ロバノフ協定を結んでいる。
※この「背景・経緯」の解説は、「露清密約」の解説の一部です。
「背景・経緯」を含む「露清密約」の記事については、「露清密約」の概要を参照ください。
背景・経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/06 19:42 UTC 版)
女性参政権運動を中心に女性の権利・地位向上、男女同権を目指した第一波フェミニズムに対して、文化・社会に深く根を張る意識や習慣による性差別と闘い、主に性別役割分業の廃絶、性と生殖における自己決定権などを主張したのが第二派フェミニズムである。 一方、1960年代には権威主義的な既成秩序に抗議し、大学改革を求める学生運動(大学紛争)が起こり、この結果、大学教育において教育課程や教育方法が改善され、新たな学問・研究講座が開講されることになった。こうした背景のもと、女性たちは、従来の学問・研究が男性の経験、問題・関心に基づいて構築されたものであること、すなわち、女性の経験等を度外視した男性中心主義的なものであることに気付き、既存の学問領域において女性の経験等に基づく研究を行い、同時にまた、これまで周辺に追いやられ、忘れ去られた女性の歴史、芸術、文学などを発掘・回復する必要があると考えた。したがって、この点では、男性が作り上げてきた伝統的な学問分野において「女性」というテーマを取り上げて研究するだけでは不十分であり ―― この場合、「男性中心の考え方が脅かされることはない」――、男性中心の物の見方そのものを覆し、すべてを女性中心の視点で捉え直し、新たな学問体系する必要があった。 一方、ボーヴォワールは1949年出版の『第二の性』において生物学、文学、精神分析学、人類学、哲学等の研究に基づき、女性の抑圧、他者性を体系的に論じた。これを受け継ぎ、または批判的に読み解き、性差別の構造のさらなる解明を目指すこともまた重要な課題となった。 加えて、1960年代後半から1970年代前半にかけての女性解放運動を白人中産階級の異性愛・既婚女性のみを対象とする運動であると批判した他の人種、階級、性的指向、その他の文化的・社会的立場の女性たちを中心に、対象の拡大や方法論の再検討、これらの要素を取り込んだ理論化が行われている。 女性、女性性、ジェンダー、性差別、その他のマイノリティの問題等を体系的に考察することは、現代社会の分析と理解に不可欠であり、したがって、研究のみならず教育の場でもある大学の教育に女性学を取り入れること(研究者・教員による講座開講から学部・大学院の設置)は、諸制度および社会全体の改革を準備するものであり、政治・社会・文化活動と連携し得るものである。
※この「背景・経緯」の解説は、「女性学」の解説の一部です。
「背景・経緯」を含む「女性学」の記事については、「女性学」の概要を参照ください。
背景・経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 06:11 UTC 版)
「コーポレート・ガバナンス報告書」の記事における「背景・経緯」の解説
従来、コーポレート・ガバナンスに関する情報は、各社の裁量に委ねられ決算短信で開示されていたものの、他の情報と併せて開示されており投資者が各社のコーポレート・ガバナンス体制について独自に比較・判断することが難しかった。 2006年から、証券取引所は投資者ニーズを受け、上場会社に対し当該情報のみを集約したコーポレート・ガバナンスに関する報告書の開示を求め、取引所WEBサイトに掲載することとなった。 2009年12月29日に有価証券上場規程が改定され、コーポレート・ガバナンス報告書に報告すべき内容に変更が生じた。具体的には、上場会社が「自らのコーポレートガバナンス体制を選択する理由」、「社外取締役に関する事項」、「監査役の機能強化に向けた取組状況」および「社外役員(社外取締役・社外監査役)の独立性に関する考え方」を記載した同報告書の提出を2010年3月末までに求めることとした。さらには「独立役員の確保の状況」を同年3月1日以降に終了する事業年度に係る定時株主総会終了後に遅滞なく提出することを義務付けた。これらは、2009年6月17日に取りまとめられた企業統治研究会の企業統治研究会報告書に基づき、具体化されたもの。 2010年3月28日から、TDnetのシステム変更によって様式が更新されることとなった。これは、独立役員制度への対応等を踏まえたもの。
※この「背景・経緯」の解説は、「コーポレート・ガバナンス報告書」の解説の一部です。
「背景・経緯」を含む「コーポレート・ガバナンス報告書」の記事については、「コーポレート・ガバナンス報告書」の概要を参照ください。
背景・経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 13:44 UTC 版)
ラダガイスス軍との戦いは、5世紀初頭にローマ帝国が直面した大きな戦役の一つであり、最も顕著なのは376年のゴート族の一派であったテルヴィンゲン(羅:tervingi)らによるドナウ川横断と378年のアドリアノープルの戦いに続く比較的平和な時期の末に起こった、410年のアラリックによるローマ略奪であった。この直前には406年12月31日、アラン人、スエビ人、ヴァンダル人の連合軍がライン川を渡ってガリアに侵入した(ライン川渡河)のである。 452年の『クロニカ・ガリカ(en:Chronica Gallica of 452)』によると、ラダガイススの軍は3つの独立分隊に分かれ、それぞれを指揮するリーダーがいたという。この短いニュースは様々な解釈を引き起こし、その結果、401年にラエティアでローマ軍と戦ったヴァンダルとアランの一団がゴート族の長と同盟を結んだとする説が提案されている。敗戦後、再び北に集結し、同年末にライン川を渡った集団と同じになったはずだという。 そして408年、それまでローマに忠誠を誓っていたフン族の武将ウルディンがゲルマン人の一部族であるスキリア人と同盟を結び、ドナウ川を渡ってカストラ・マトリス(en:Castra Martis)を征服したのである。ブルグント族も移動し、国境の向こう側の居住地から、ローマ帝国のゲルマニア・インフェリオル州に属する地域に侵入を開始した。この民族移動は、フン族が4世紀末にヴォルガ草原に置いていた拠点をさらに西に移動させたことに端を発しているのかどうかは、議論のあるところである。
※この「背景・経緯」の解説は、「ラダガイスス」の解説の一部です。
「背景・経緯」を含む「ラダガイスス」の記事については、「ラダガイスス」の概要を参照ください。
背景・経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 07:13 UTC 版)
寿永2年(1183年)7月、北陸道での敗戦により平氏が京を脱出すると、直後に源義仲軍が入京した。この時点で京の朝廷が直面した課題は、官物・年貢の確保であった。西走した平氏は瀬戸内海の制海権を握り、山陽道・四国・九州を掌握していたため、西国からの年貢運上は期待できなかった。また東国も、美濃以東の東海・東山道は源頼朝政権の勢力下におさめられ、北陸道は源義仲の支配下にあった(ただし、東山道に含まれている信濃は義仲の本拠地である)。これら地域の荘園・公領は頼朝あるいは義仲に押領されていたため、同じく年貢運上は見込めなかった。さらに義仲は入京直後、山陰道へ派兵して同地域の掌握を図っていた。8月・9月という収穫期を目前としながら、諸国の荘園・公領から朝廷・諸権門への年貢運上はほとんど見込めない状況にあったのである。 さらに、入京した源義仲軍が、京中および京周辺で略奪・押領をおこなっていたことも併せて、京の物資・食料は欠乏の一途をたどり朝廷政治の機能不全が生じ始めていた。(『玉葉』寿永二年九月三日条) 一方、源頼朝も大きな課題に対面していた。源義仲の入京直後に行われた朝廷の論功行賞では、頼朝による政治交渉が功を奏し、勲功第一は頼朝、第二が義仲、第三が源行家とされた(『玉葉』七月三十日条)が、義仲が受領(従五位下左馬頭・越後守)任官を果たした(『玉葉』八月十日条)のに対し、頼朝には本来の官位復帰すら与えられず、謀叛人の身分のままとされた。さかのぼって同年前半、常陸の源義広が反頼朝の兵を挙げ、同国の大掾氏や下野の藤姓足利氏(足利忠綱)らがそれに同調する動きを見せたが、頼朝はこの反乱を鎮圧したものの、北関東の情勢は頼朝にとって非常に不安定な状態に陥っていた。その後、源義広は義仲との連携を選び、ほどなく源行家も義仲と結ぶようになる。そして夏になり、義仲軍が北陸で平氏軍に相次いで勝利し、以仁王遺児の北陸宮を奉じて上洛を果たすと、近江源氏(山本義経)、美濃源氏(山田重澄)らのみならず、頼朝と連携を結び遠江にいた甲斐源氏の安田義定も義仲のもとへ続々と合流していった。この時点において、義仲の権威と名声は頼朝のそれをはるかに上回っていたのである。平氏家人打倒を共通の目的として頼朝麾下に集結した関東武士団連合も、本来的には所領をめぐり潜在的な対立関係にあったのであり、敵対勢力の排除や淘汰にともなって徐々に結合が弱まり始めていた。元木泰雄は、こうした中で義仲が目覚しい活躍をみせたことは、頼朝政権が崩壊する可能性さえもたらしかねなかったとする。 上記の状況下において、頼朝は政治的な窮地に立たされ、危機感を強く抱いた。上横手は、頼朝の対朝廷外交の主眼は、頼朝が源氏の嫡宗であること、そして唯一の武家棟梁であることの2点を朝廷に公認させることだったと指摘している。7月末に頼朝が勲功第一と評定されたことはその外交方針による成果だといえるが、その後の状況は、義仲に優越しようとする頼朝外交があえなく失敗したことを物語っている。 ここで頼朝政権内部の状況にも目を向けると、平広常(上総広常)ら有力関東武士層には東国独立論が根強く存在しており、頼朝を中心とする朝廷との協調路線との矛盾が潜在していた。前者は以仁王の令旨を東国国家のよりどころとしようとし、後者は朝廷との連携あるいは朝廷傘下に入ることで東国政権の形成を図る立場であった。この2路線の相克が、爾後、頼朝政権が退勢を挽回する上で重要となってくる。 物資の確保を狙う朝廷側(後白河院)と、義仲に優越する必要に迫られていた頼朝側との間で、9月ごろから交渉が開始した。まず後白河院から頼朝へ何らかの要請がなされたとされるが、その内容を明らかにする史料は残されていない。後白河院からの要請に対して、頼朝は3か条からなる回答を示している。1点目は神社仏寺へ勧賞を行うこと、2点目は院宮王臣家以下の荘園を本所の領有に復帰させること、3点目は斬罪の寛刑特令を発布すること、であった(『玉葉』十月四日条)。佐藤進一は、後白河院の真の狙いは国衙支配の回復であったろうが、頼朝の回答は荘園領有権の回復に言及しているのみであり、国衙支配の回復には触れていないことから、国衙支配の回復が重要な外交カードになっていたと指摘する。また、佐藤は、寛刑特令発布について、義仲による平氏残党掃討を牽制する意図があったと考えている。 10月中旬に至って交渉は妥結した。朝廷から下されたその宣旨は、東海・東山両道の荘園・公領の領有権を回復させることと、それに不服の者については頼朝へ連絡し「沙汰」させる、という2つの内容を有していた(詳細は上記「内容」節を参照)。前段は朝廷側の要求の実現であり、後段は頼朝側の要請が承認されたものと解されている。後段に現れる「沙汰」の意味するところについては様々な議論があるが、佐藤進一が提示した「国衙在庁指揮権」とする見解が有力である。佐藤は、朝廷が求めていた東国における国衙支配の回復が宣旨の前段にて示されたことは、頼朝の譲歩だといえるが、後段において実質的な国衙在庁指揮権が頼朝の権利として公認されたのだとした。 頼朝は、義仲に対する優越を確実にするため、宣旨の対象地域に北陸道を加えるよう朝廷へ要請していた。折りしも義仲は西走した平氏追討のため、10月初頭から播磨へ出陣しており、京に不在であったが、義仲を恐れた朝廷は北陸道を宣旨から除外した。山本幸司は、この点に頼朝と義仲を両天秤にかける後白河院の政治的意図があったとする。これに対して河内祥輔は3ヵ条の回答の冒頭に京攻めについて神仏の功徳のみを述べて義仲の功績を全否定していることを挙げ、頼朝の要請した対象地域には現在義仲が軍事的に占領している全地域すなわち京都を含めた畿内一帯も含まれていたが、北陸道の除外によって畿内も当然除外されたとする。宣旨の発布を知った義仲は激しく怒り、後白河院に対し「生涯の遺恨」とまで言うほどの強い抗議を行っている(『玉葉』閏十月二十日条)。 宣旨の発布と同時に、頼朝は配流前の官位である従五位下右兵衛権佐に叙せられ、謀叛人の立場から脱却した。元木泰雄は、この時点で頼朝は王権擁護者の地位を得たとし、宣旨による頼朝の最大の成果は、東国行政権というよりも王権擁護者の地位だったとの見解を示している。本宣旨を獲得したことにより、頼朝政権は対朝廷協調路線の度合いを強めた。それまで頼朝は、朝廷が使用していた寿永年号を拒み、治承年号を使用し続けていたが、宣旨発布の前後から寿永年号を使用し始めている。その一方で、幕府内の東国独立論は大きく後退していった。東国独立論を強く主張していた平広常が同年12月に暗殺されたことは、頼朝政権の路線確定を表すものと考えられている。 頼朝は宣旨施行のためと称して、源義経・源範頼ら率いる軍を京方面へ派遣した。軍は11月中旬までに伊勢へ到達している。
※この「背景・経緯」の解説は、「寿永二年十月宣旨」の解説の一部です。
「背景・経緯」を含む「寿永二年十月宣旨」の記事については、「寿永二年十月宣旨」の概要を参照ください。
- 背景・経緯のページへのリンク