背景・言語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/06 16:11 UTC 版)
ムハンマド・ディブは1920年7月21日、モロッコとの国境に近いトレムセン(トレムセン県の県都)に生まれた。6人兄弟姉妹の長子であった。父方の祖父、大叔父、兄弟はアラブ・アンダルシア音楽(フランス語版)の師匠であった。アラブ・アンダルシア音楽(またはアラブ・アンダルース音楽)とは、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、などのマグレブ諸国で誕生し、アラブ民族がイベリア半島(アンダルシア)を支配していた9世紀から12世紀にかけて発展した古典音楽である。父は建具職人、店員など職を転々とし、1931年、ディブが11歳のときに死去した。 ディブの母語はアラビア語だが、マドラサ(コーランの教えに基づくアラビア語の学校、イスラム学校)ではなく、フランス語の学校に通った。作家としてフランス語で執筆したディブは、「私の心性・心象は母語であるアラビア語の話し言葉によって作られたが、これは、共通の神話的な基盤のようなものであり」、これに対して、後から習得したフランス語は「第二の母語」であり、無意識のうちに「母語」になったのではなく、自己探求における一つの歩み、長い歩みの結果「母語」になったのであり、この過程で、「習得した言語の内側に作家としての私の言語を創り出した」、フランス語で書きながらも気付かないうちに母語(アラビア語)によって「操られる」ことになるが、結果として「2つの言語が共鳴する」ことになり、「作家にとっては恵みである」と語っている。 トレムセンのコレージュに通っているときに、音楽の教師ロジェ・ベリサンに出会った。この地域で音楽・合唱協会を創設した人物で、ベリサン夫人は幼稚園を経営していた。ディブは彼に師事して音楽・合唱を学び、一緒に演奏会に行き、彼の影響で特にベートーヴェンとモーツァルトの音楽に深い関心を寄せるようになった。ベリサンは教育においては非宗教的(ライック)な教育を支持し、政治的にはアルジェリア共産党(フランス語版)員であり、ベリサンの合唱団では、フランス人民戦線を支持して、パリ・コミューンから生まれた共産主義の歌「アンテルナシオナル」をアラブ・アンダルシア音楽風に編曲してアラビア語で歌うといった雰囲気であった。ディブは音楽、教育そして思想的にもベリサンから大きな影響を受け、後にアルジェリア共産党に入党。1951年にベリサンの娘コレット・ベリサンと結婚した。
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