戦前の朝鮮人移入の背景
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「在日韓国・朝鮮人の歴史」の記事における「戦前の朝鮮人移入の背景」の解説
「日本統治時代の朝鮮」も参照 注:ここで述べる背景・経緯は、朝鮮の植民地時代・日本の敗戦以前から日本に居住する朝鮮人に関するものである。 韓国併合(日韓併合)以前から朝鮮人は日本に流入し、留学生や季節労働者の朝鮮人が日本に在留していた。韓国併合以降はその数が急増した。内務省警保局統計は、1920年に約3万人、1930年には約30万人の朝鮮人が在留していたとしている。一方、「大正9年(1920年)および昭和5年(1930年)の国勢調査(民籍別)」を記載した1938年(昭和13年)発行の年鑑によれば朝鮮人の民籍は、大正9年(1920年)で40,755人、昭和5年(1930年)で419,009人との記載がある。したがって、この十年で人口増は378,254人ということになる。 日本政府は徴兵のために労働力が不足した戦時の数年間を除き、戦前戦後を通じて日本内地への渡航制限などにより朝鮮人の移入抑制策を取ったが、移入を止まらなかった。 朝鮮人が日本に移入した要因として、以下の社会的変化が挙げられる。 朝鮮南部は人口密度が高い上に李氏朝鮮時代から生活水準が低かったため、生活水準の高い日本内地を目指した。朝鮮内における朝鮮人の賃金は、日本における朝鮮人の賃金の約5割から7割に過ぎず、しかも、日本は、朝鮮よりもはるかに雇用機会が高かったため、朝鮮人は日本に渡った。 朝鮮人の賃金よりもさらに低賃金の中国人が1882年以降朝鮮に移民し、次第に朝鮮人と競合するようになり、朝鮮における朝鮮人の失業をもたらした。 朝鮮における農業生産体制の再編併合後の朝鮮では農村を含めた経済システムが再編され、特に1910年から1918年にかけて行われた土地調査事業によって植民地地主制が確立し、日本人地主と親日派朝鮮人地主へと土地所有権が移動したといわれ、その結果、土地を喪失した多くの農民が困窮し、離農・離村したことが日本への移住につながったとしている。また、産米増殖計画による米の増産と日本への過剰輸出が、朝鮮半島で1人当たりの米の供給量激減と米価の高騰を招き、小作農などの人々を困窮させ土地の収奪・農民の没落が進行し、日本への移住に拍車をかけたとする論もある。1985年に土地事業当時の公文書が大量に発見されてからは実証研究がなされるようになり、2004年には「日本による土地収奪論は神話である」と李栄薫が主張している。 山本有造によると、土地調査事業によって所有者が判明せず、日本に収められた朝鮮の農地は全体の3%前後(多くても10%)であるとしている。 李栄薫によると、朝鮮全土484万町歩の土地の大部分が民有地、残りの12.7万町歩が国有地とされ、国有地も1924年までは日本人ではなく朝鮮人の小作人に有利な条件で払い下げられたもので、土地収奪論は1955年に東京大学留学中の李在茂による創作としている。 日本における資本主義の発展によって、第一次世界大戦による好況下、労働力需要が高まったこと、人件費の高騰を抑え、国際競争力の源泉である低賃金労働力として朝鮮人労働力を必要としたことが挙げられる。これが朝鮮人の日本への移住を促進した。特に紡績業界は、1891年を最初として、1915年以降は頻繁に、朝鮮人労働者を公募した。紡績業界は、低賃金・長時間労働を強いられる下層労働市場であり、日本人が賎業として忌避する仕事で日本人以下の低賃金・低級な生活状態であっても、朝鮮人は粗衣・粗食で黙々と従事した為、このような稼業の労働力として必要とされるようになったとも言われる。一般の日本人に忌避された仕事は、元々、被差別部落民や社会的マイノリティの仕事であったが、朝鮮人労働者は、それらよりも低廉な労働力として入り込み、その居住地も当初、被差別部落の中にあった。このような貧しくて日本に流れてきた朝鮮人がいる一方で、朝鮮において「京城紡織株式会社」のように戦後まで続く大手の紡績会社を経営して成功した朝鮮人もおり、このような姿は資本主義の萌芽が日韓併合時に朝鮮で生まれたものであるとする研究者もいる。 1910年-1940年にかけて朝鮮では年平均1.3%の人口増加率を記録し、世界的に見て高い人口増加率が記録されている。 1910年-1940年にかけて朝鮮では年平均3.7%の経済成長率を記録し、世界恐慌下にあった海外とは異なり高度成長を遂げている。 日本政府は、第一次世界大戦終了後、朝鮮人流入に起因する失業率上昇や、犯罪増加に悩まされており、朝鮮人の日本内地への流入を抑制する目的で満洲や朝鮮半島の開発に力を入れた。 朝鮮人労働者の流入は日中戦争および太平洋戦争により増加していった。併合当初は土建現場・鉱山・工場などにおける下層労働者で、単身者が多くを占める出稼ぎの形態をとっていたが、次第に家族を呼び寄せたり家庭を持つなどして、日本に生活の拠点を置き、永住もしくは半永住を志向する人々が増えた。 1945年8月終戦当時の在日朝鮮人の全人口は約210万人ほどとする報告もある。その9割以上が朝鮮半島南部出身者であった。このうちの多くが第二次世界大戦終戦前の10年間に渡航したと考えられている。 1934年10月 岡田内閣は「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定し、朝鮮人の移入を阻止するために朝鮮、満洲の開発と密航の取り締まりを強化。 1939年9月 朝鮮総督府の事実上の公認のもと、民間業者による集団的な募集の開始 1942年3月 朝鮮総督府朝鮮労務協会による官主導の労務者斡旋募集の開始(細かな地域ごとに人数を割り当て) 1944年9月 日本政府が国民徴用令による徴用 この時期は兵役により不足した日本の労働力を補うため、朝鮮半島からの民間雇用の自由化(1939年)、官斡旋による労務募集(1942年)により在日朝鮮人が急増した。1939年から1945年までに在日朝鮮人の人口は約100万人増加した。このうち約70万人は自ら進んで内地に職を求めてきた個別移住者とその間の出生で、残りの約30万人の大部分は工鉱業、土木事業の募集に応じてきた者である。 1944年9月から始まった朝鮮からの徴用は1945年3月に下関-釜山間の運行が止まるまでの7月間であり、合計人数は245人である。1974年の法務省・編「在留外国人統計」では、朝鮮人の日本上陸は1941年 - 1944年の間で1万4514人とされ、同統計上同時期までの朝鮮人63万8806人のうち来日時期不明が54万3174人であった。朝鮮半島での労務募集の実態や日本国内での朝鮮人労働者の待遇・生活については、その人数や規模などを含めて、現在も議論が続いている。 日本が在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業を行った際に韓国側などが「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」などと中傷し、日本の外務省は「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」を発表して反論した。日本国内での労働に従事した朝鮮人の中には、「タコ部屋労働」のような、自由を奪われた状況に置かれた者もあった。。 なお、2005年の日韓基本条約関係文書公開に伴う韓国政府に対する補償申請者は、2006年3月の時点で総受理数21万件のうち在日韓国人からは39人に留まっており、これは樺太(サハリン)からの5996件に比べても極端に低い数である。 1945年以降は、日本は戦災によって国土が荒廃し、食料不足になり占領国からの食糧援助に頼らざるを得なくなったが、戦災に遭わなかった朝鮮は日本統治時代には食料を輸出できるほどの生産性を備えるに至ったことなどから、1946年3月までに在日朝鮮人のうち140万人の帰還希望者が日本政府手配などで朝鮮に帰還したが、戦後も朝鮮からの密航者が絶えず日本の治安問題となった。また、1945年に朝鮮半島に帰還したものの、その後に動乱を逃れて再び日本に移入した者も多かった。彼らとその子孫も、オールドカマーのうちに入れられることが多い。
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