戦前の朝鮮人移入の背景とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 戦前の朝鮮人移入の背景の意味・解説 

戦前の朝鮮人移入の背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 18:56 UTC 版)

在日韓国・朝鮮人の歴史」の記事における「戦前の朝鮮人移入の背景」の解説

日本統治時代の朝鮮」も参照 注:ここで述べ背景・経緯は、朝鮮植民地時代日本の敗戦以前から日本居住する朝鮮人に関するのである韓国併合日韓併合以前から朝鮮人日本流入し留学生季節労働者朝鮮人日本在留していた。韓国併合以降はその数が急増した内務省警保局統計は、1920年に約3万人1930年には約30万人朝鮮人在留していたとしている。一方、「大正9年1920年)および昭和5年1930年)の国勢調査民籍別)」を記載した1938年昭和13年発行年鑑によれば朝鮮人民籍は、大正9年1920年)で40,755人、昭和5年1930年)で419,009人との記載がある。したがって、この十年人口増は378,254ということになる。 日本政府徴兵のために労働力が不足した戦時数年間を除き戦前戦後通じて日本内地への渡航制限などにより朝鮮人移入抑制策取ったが、移入を止まらなかった。 朝鮮人日本移入した要因として、以下の社会的変化挙げられる朝鮮南部人口密度が高い上に李氏朝鮮時代から生活水準低かったため、生活水準の高い日本内地目指した。朝鮮内における朝鮮人賃金は、日本における朝鮮人賃金の約5割から7割に過ぎず、しかも、日本は、朝鮮よりもはるかに雇用機会高かったため、朝鮮人日本渡った朝鮮人賃金よりもさらに低賃金中国人1882年以降朝鮮移民し次第朝鮮人競合するようになり、朝鮮における朝鮮人失業もたらした朝鮮における農業生産体制再編併合後の朝鮮では農村含めた経済システム再編され、特に1910年から1918年にかけて行われた土地調査事業によって植民地地主制が確立し日本人地主親日派朝鮮人地主へと土地所有権移動したといわれ、その結果土地喪失した多く農民困窮し離農離村したことが日本への移住つながったとしている。また、産米増殖計画による米の増産日本への過剰輸出が、朝鮮半島1人当たりの米の供給激減米価高騰招き小作農などの人々困窮させ土地収奪農民没落進行し日本への移住拍車をかけたとする論もある。1985年土地事業当時公文書大量に発見されてからは実証研究なされるようになり、2004年には「日本による土地収奪論は神話である」と李栄薫主張している。 山本有造によると、土地調査事業によって所有者判明せず日本収められ朝鮮農地全体の3%前後多くて10%)であるとしている。 李栄薫によると、朝鮮全土484万町歩の土地大部分民有地残りの12.7万町歩が国有地とされ、国有地1924年までは日本人ではなく朝鮮人小作人有利な条件払い下げられたもので、土地収奪論は1955年東京大学留学中在茂による創作としている。 日本における資本主義発展によって、第一次世界大戦による好況下、労働力需要高まったこと、人件費高騰抑え国際競争力源泉である低賃金労働力として朝鮮人労働力を必要としたことが挙げられる。これが朝鮮人日本への移住促進した。特に紡績業界は、1891年最初として、1915年以降頻繁に朝鮮人労働者公募した紡績業界は、低賃金長時間労働強いられる下層労働市場であり、日本人賎業として忌避する仕事日本人以下の低賃金低級な生活状態であっても朝鮮人粗衣・粗食黙々と従事した為、このような稼業労働力として必要とされるようになったとも言われる一般日本人忌避された仕事は、元々、被差別部落民社会的マイノリティ仕事であったが、朝鮮人労働者は、それらよりも低廉労働力として入り込み、その居住地当初被差別部落中にあった。このような貧しくて日本流れてきた朝鮮人がいる一方で朝鮮において「京城紡織株式会社」のように戦後まで続く大手紡績会社経営して成功した朝鮮人もおり、このような姿は資本主義萌芽日韓併合時に朝鮮生まれたのであるとする研究者もいる。 1910年-1940年にかけて朝鮮では年平均1.3%の人口増加率記録し世界的に見て高い人口増加率記録されている。 1910年-1940年にかけて朝鮮では年平均3.7%の経済成長率記録し世界恐慌にあった海外とは異なり高度成長遂げている。 日本政府は、第一次世界大戦終了後朝鮮人流入起因する失業率上昇や、犯罪増加悩まされており、朝鮮人日本内地への流入抑制する目的満洲朝鮮半島開発力を入れた朝鮮人労働者流入日中戦争および太平洋戦争により増加していった。併合当初土建現場鉱山工場などにおける下層労働者で、単身者多く占め出稼ぎ形態とっていたが、次第家族呼び寄せたり家庭を持つなどして、日本に生活の拠点を置き、永住もしくは永住志向する人々増えた1945年8月終戦当時在日朝鮮人全人口は約210万人ほどとする報告もある。その9割以上が朝鮮半島南部出身者であったこのうち多く第二次世界大戦終戦前の10年間に渡航した考えられている。 1934年10月 岡田内閣は「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定し、朝鮮人移入阻止するために朝鮮満洲開発密航取り締まり強化1939年9月 朝鮮総督府事実上公認のもと、民間業者による集団的な募集開始 1942年3月 朝鮮総督府朝鮮労務協会による官主導労務者斡旋募集開始細かな地域ごとに人数割り当て1944年9月 日本政府国民徴用令による徴用 この時期兵役により不足した日本労働力を補うため、朝鮮半島からの民間雇用自由化1939年)、官斡旋による労務募集1942年)により在日朝鮮人急増した1939年から1945年までに在日朝鮮人人口は約100万増加したこのうち70万人は自ら進んで内地に職を求めてきた個別移住者その間出生で、残りの約30万人大部分は工鉱業土木事業募集に応じてきた者である。 1944年9月から始まった朝鮮からの徴用1945年3月下関-釜山間の運行止まるまでの7月間であり、合計人数245人である。1974年法務省・編「在留外国人統計」では、朝鮮人日本上陸1941年 - 1944年の間で1万4514人とされ、同統計同時期までの朝鮮人638806人のうち来日時不明543174人であった朝鮮半島での労務募集実態日本国内での朝鮮人労働者の待遇・生活については、その人数や規模などを含めて、現在も議論続いている。 日本在日朝鮮人北朝鮮帰還事業行った際に韓国側などが「在日朝鮮人大半戦時中日本政府強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」などと中傷し日本の外務省は「在日朝鮮人引揚に関するいきさつ」を発表して反論した日本国内での労働従事した朝鮮人中には、「タコ部屋労働のような、自由を奪われ状況置かれた者もあった。。 なお、2005年日韓基本条約関係文書公開に伴う韓国政府対す補償申請者は、2006年3月時点で総受理21件のうち在日韓国人からは39人に留まっており、これは樺太サハリン)からの5996件に比べて極端に低い数である。 1945年以降は、日本戦災によって国土荒廃し食料不足になり占領国からの食糧援助に頼らざるを得なくなったが、戦災に遭わなかった朝鮮日本統治時代には食料輸出できるほどの生産性備えるに至ったことなどから、1946年3月までに在日朝鮮人のうち140万人帰還希望者が日本政府手配などで朝鮮帰還したが、戦後朝鮮からの密航者絶え日本の治安問題となったまた、1945年朝鮮半島帰還したものの、その後動乱逃れて再び日本移入した者も多かった。彼らとその子孫も、オールドカマーのうちに入れられることが多い。

※この「戦前の朝鮮人移入の背景」の解説は、「在日韓国・朝鮮人の歴史」の解説の一部です。
「戦前の朝鮮人移入の背景」を含む「在日韓国・朝鮮人の歴史」の記事については、「在日韓国・朝鮮人の歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦前の朝鮮人移入の背景」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦前の朝鮮人移入の背景」の関連用語

戦前の朝鮮人移入の背景のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦前の朝鮮人移入の背景のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの在日韓国・朝鮮人の歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS