後桜町天皇
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陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
脚注
参考文献
- 宮内省図書寮 編『後桜町天皇実録』全4巻(ゆまに書房、2006年) ISBN 4-8433-2036-6
- 所 京子「後桜町女帝年譜稿」(『史窓』第58号、2001年2月) p353 - p363
- 所 京子「後桜町上皇年譜稿」(『岐阜聖徳学園大学紀要 外国語学部編』第40集、2001年3月) p92 - p116
- 野村 玄「女帝後桜町天皇の践祚とその目的」(『日本歴史』701号、2006年) p69 - p84
- 藤田 覚『江戸時代の天皇』(講談社、2011年) ISBN 978-4-06-280736-4
外部リンク
- 京都大学歴史研究会 - 後桜町天皇
後桜町天皇
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日本の皇室 | ||
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先代 桃園天皇 (遐仁) |
皇位 第117代天皇 1762年9月15日 - 1771年1月9日 宝暦12年7月27日 - 明和7年11月24日 |
次代 後桃園天皇 (英仁) |
注釈
- ^ はじめ智子を“さとこ”と訓じたが、霊元天皇諱の識仁(さとひと)と音が通うため、践祚後の宝暦12年7月29日“としこ”に改めた。
- ^ 近衛家から内前・輝久、鷹司家から輔平、一条家から輝良、九条家から尚実。二条家当主で12歳の重良は不在。
- ^ なお、明正天皇の礼服は白生絹であったが、後桜町天皇の礼服は男帝の礼服の生地である龍文(無文の綾地綾)であった
- ^ なお、大腰袴は女官の服装といわれることが多いが、武家で徳川宗家・御三家・御三卿の正妻などの礼装のひとつ「袴着掻取」に用いることからわかるように、高貴な女性が小袖の上に袴を着てその上に袿などの装束を用いないときに使用する袴である。『後桜町天皇宸記』の天皇の即位以前の時期の記事に、さまざまな模様の小袖とともに袴を着た記事があるが、これも大腰袴の着用を示すとみてよい。
- ^ この時の伏見宮当主は18代邦頼親王。邦頼親王の長男の嘉禰宮(5歳)が候補に挙がった。
- ^ この時、光格天皇は聖護院を仮御所とし、恭礼門院は妙法院をそれぞれ行宮とした。
出典
- ^ 服藤早苗編『歴史の中の皇女たち』(小学館、2002年12月1日) pp. 122-123
- ^ 久保貴子「上皇・天皇の早世と朝廷運営―朝幕関係の展開―」(『近世の朝廷運営』岩田書院、1998年)
- ^ 野村玄「女帝後桜町天皇の践祚とその目的」(『日本歴史』701号、2006年)
- ^ 石田俊「近世朝廷における意思決定の構造と展開」(『日本史研究』618号、2014年)
- ^ 藤田覚『江戸時代の天皇』(講談社、2011年6月24日) p.163
- ^ 藤田覚『江戸時代の天皇』(講談社、2011年6月24日) pp. 163-164
- ^ 『旧儀御服記』ほか[注釈 4]。
- ^ 『続史愚抄』ほか。
- ^ BUSHOO!JAPAN (2023年8月3日). “最後の女帝・後桜町天皇が国母と称される理由~現代皇室にも影響有り”. BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン). 2023年11月12日閲覧。
- ^ 八條忠基『有職植物図鑑』株式会社平凡社、2022年11月28日 。
- ^ 長坂良宏『近世の摂家と朝幕関係』(吉川弘文館、2018年2月20日) pp. 148-155
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- 2 後桜町天皇の概要
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