鶴岡(酒田)・山形県令
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明治7年(1874年)12月、内務卿大久保利通により酒田県令(現在の山形県酒田市など旧庄内藩を所管)に就任する。この人事には伊藤博文が関わったとされる。着任早々の課題は、ワッパ騒動と呼ばれる農民抗議への対策であった。これは、旧庄内藩時代からの県令や官吏が、明治政府の布告を無視して旧庄内藩時代同様の税と労役を課したことに対する農民の反抗であった。三島は官吏を全面的に更迭するとともに、農民に対しては弾圧で臨んだ。翌年、裁判により過納金を農民に返すことで騒動は決着した。 明治8年(1875年)次男三島弥二が生まれる。2月、ワッパ騒動の報告のため上京。8月、酒田県が鶴岡県に改名される。 同年、鳴鶴学校を海晏寺に作り英才教育を行う。この学校には酒田・鵜渡川原の各学校より優等生120名を選んで入れる。 明治9年(1876年)7月、三男三島弥六が生まれる。8月21日に、鶴岡県、旧山形県、置賜県が合併され、現在の山形県が設置されると、三島は初代・山形県令に就任した。明治10年(1877年)に着任するが、この時、「(明治十年三月)町口で岩切や職員たちの出迎えを受けた通庸は、彼等の用意した人力車で香澄町(現・木の実町)の公邸に入る。公邸には薄井と船越が待っていた。(略)公邸は、水野氏(山形最後の藩主)の藩校経誼館を改築したもので、県庁を兼ねている。通庸以前の県令は、水野氏の新御殿を県庁にしていたが、大山形県となり、手狭なために通庸が、新御殿から通りを隔てた経誼館に移した」という。なお、この年に、同郷・同い年で共に精忠組の一員として寺田屋騒動にも関わった義兄の柴山景綱を山形に招き、以後も終生、公務を共に進める。 明治10年(1877年)、山形市内に湯殿山神社 (西川町本道寺)を建立。 在任中に、藩校経誼館を「庭を望む建物の一部を改築して、貴紳顕官の接待所兼宿舎-迎賓館にした。現在、経誼館のあとには教育会館が建っているが、大正十五年、会館建設が決議されるまではそっくり庭が残っていたという。(略)弥太郎が下駄をつっかけ、気軽に出て行ったのは、迎賓館の東隣がローレツの官舎、庭を隔てた南隣が三島邸だからである」という。自身が住む官舎は、旧藩主の隠居所であった茅屋とした。「立派な私邸どころか官舎に居住していた。しかも茅葺の陋屋である。後に煉瓦づくりの官舎が新築されるが、そこに住んだのは、次の山形県令折田平内から」だという。 山形での道路事業 山形県における政策の中心は、道路・橋梁整備と公共施設の建築であった。当時、山形県から東京方面あるいは宮城県へ出るには山越えしなければならず不便だったため、新道の開削工事を推進。三島が山形県令になったときに、内務卿の大久保利通に県政の方針を問われ、第一に新たな道路を開いて交通の便を良くすることを挙げると、三島の主張を聞いた大久保は「あまり一時に大事業を行うのはどうか」と疑問を投げかけたが、三島の決断は堅く、大久保もそれを許したという。江戸時代まで、現在の山形県、特に庄内地方(旧鶴岡県)は、日本海と最上川を経由する舟運により、江戸よりも大坂と強く結びついていた。しかし、明治時代に陸運が重視されると、陸路による東京までの交通整備が進められた。 明治9年(1876年)、東京と東北諸県を結ぶ萬世大路(万世大路)の一部である山形福島間の建設計画の告示を出し、総額14万5千円の工事金を地元負担とするように区長に要請。 刈安新道 まず、米沢から福島へ出るための道として刈安新道を計画。それまで、奥羽山脈を越える山形・福島間の道路は、川越石から栗子山の南鞍部を通って福島市の大滝に至るもので、この峠は標高が高く地形は急峻で、道路としての利便性は低いものであった。そのため、往来する人々は板谷峠を越えることが多かった。予算のおおよそ半分にあたる9万5千円を費やし、明治9年、途中に当時日本最長になる栗子山隧道の掘削に着工した。東アジア初の本格的な山岳路工事であり、栗子隧道の掘削は山形側の岩盤が固いために難航した。そのため当時、世界に3台しかないといわれていた蒸気エンジンの米国製削岩機を導入、削岩した穴にはニトログリセリンを詰め、爆破しながら進める大事業だった。同隧道は明治14年10月に貫通、現場にいた三島は「ぬけたりと よう一声に夢さめて 通ふもうれし 穴の初風」との歌を残した。他にも覗橋 (上山市)などを整備した。 関山・作並・金山・磐根・加茂街道 山形・仙台間の既存の街道では、冬場の積雪と険しい山道のため、増加する人々の往来や物流に対応できないとして、馬車が通れる新道の整備を行ったものである。関山街道の関山隧道(関山トンネル)は、標高600メートルの位置に掘られた延長287メートルの隧道で、この完成により山形から宮城県まで馬車での通行が可能になった。また、雄勝峠、加茂坂峠なども改良・整備。磐根街道の開削中には温泉が湧出し草薙温泉となった。 小国新道 やはり峻険で積雪時に通行が困難な小国街道を開鑿した。明治14年10月に着工され、主に宇津峠、舟形橋 (山形県)を改良・整備し、明治19年秋に完成した。途中にある片洞門は、明治16年の竣功であった。 早坂新道 明治11年(1878年)、山形市と上山を結ぶ早坂新道が開通。なお、この道は明治20年に文相森有礼が東北の学校を視察する折に通り、金瓶尋常小学校の生徒だった斉藤茂吉がこの道で森に敬礼した。当時造られた堅磐橋(山形県上山市大字川口字川原)、中山橋(山形県上山市中山)、覗橋(山形県上山市楢下)などが現存する。 羽州街道 主に上台峠、常盤橋 (山形県)、薬師山 (山形県金山町)、猿羽根峠、主寝坂峠などを改良・整備した。新橋(山形県上山市楢下)、吉田橋(山形県南陽市小岩沢、明治13年竣工)が現存。 これらにより山形県の産物が陸路で福島や仙台に出て、ついで奥州街道や鉄道による東京への輸送路が確立した結果、県経済は活況を呈した。「土木県令」とあだ名されたのも、ちょうどこの頃からである。これらの道は後に国道13号、国道48号となり、トンネルや橋梁の代替わりやバイパス道路化を経ながらも、明治時代以降の物流の変化によく対応し、現在でも県内の主要道路であり続けているなど、山形県内陸部の交通インフラ整備には成果を上げている。 公共施設建設 建築では、県庁・病院・学校などを当時としては大きな規模で多数作った。現存するものに旧済生館病院本館(重要文化財)、旧東村山郡役所、旧西村山郡役所、旧東田川郡役所、旧西置賜郡役所(現文教の杜ながい)、鶴岡の朝暘学校、三川橋、などがある。現存しないものでは旧山形県庁舎がある。 済生館病院建造に先立つ明治10年7月に一等属の筒井明俊を病院建築掛に任命し、長谷川元良院長と共に上京させて東京大学医学部病院、陸軍病院、横浜海軍病院といった東京・横浜方面の病院建築の実情を視察させた。それと前後して三島も上京して東京大学(東京帝国大学の前身)医学長の三宅秀に病院建築の設計図作成を依頼した。なお、筒井が平面図を作成。塔の部分は山形県の十等出仕になった原口祐之によって完成。 明治17年には、高橋兼吉が建設を請け負っていた鶴岡警察署庁舎が完成。 これらは擬洋風建築で建てられたが、作業に従事した棟梁たちがその後も形式を踏襲したため、東北地方には多数の擬洋風建築が存在することとなった。 米沢製糸場 明治9年(1876年)8月、宮島誠一郎が三島を訪ねる。その後、宮島の提唱により士族授産のための製糸場設立が三島の下で進められた。 高橋由一による描画 明治14年に山形市を訪問した洋画家の高橋由一は、これらの建築物や都市の景観を描いている。この時、高橋は新道を写生して石版画帖を刊行することを三島に建言。これにより明治17年、三島から石版画の製作を依頼、高橋が山形・福島・栃木の3県の新道を描いて「三島県令道路改修記念画帖」とした。石版画の構成は、山形が55図、福島が53図、栃木が20図で全128図である。 なお、天童出身の菊地新学を御用写真師として雇い入れ、山形県で施工したすべての土木事業を撮影させている。特に、山形官庁街の写真は、大通りに全体が見渡せる櫓を組んで撮影する、大掛かりなものであった。 これらのうち現存する建物・遺構は、経済産業省により近代化産業遺産に認定されている。 サクランボ栽培の導入 明治9年(1886年)、東京の三田育種場と北海道開拓使庁から果樹苗木を取り寄せ、山形市内の県模範場に植えさせた。このうちサクランボの品種名は、最初に輸入した時の苗木につけた番号がそのまま名称になったといわれ、黄玉が8号、ナポレオンが10号などと呼ばれていた。現在は、品種改良により佐藤錦、高砂、ナポレオンなどが主流であるが、最近では紅秀峰、紅さやか、紅てまりなどの新品種も栽培されている。 西南戦争 明治10年(1877年)2月21日、鶴岡士族が不穏な動きを見せるが、三島は重病のため前年末から東京に戻っており、船越内務権大書記官を現地に派遣。27日、「鶴岡士族西郷に呼応す」との誤報により船越書記官・薄井山形県大書記官が仙台鎮台へ派兵依頼を打電。三島は病をおし東京を発つ。3月8日、山形入り13日には県庁に着いた。庄内の士族松平親懐と会談し反乱の志がないことを確認した。 明治11年(1878年)8月、四女三島鶴子が生まれる。この年、山形市を訪れた英国人女性イザベラ・バードは、著書『日本奥地紀行』で、近代的な山形市街に受けた強い印象を記している。 同年、巡業で山形を訪れた力士朝日嶽鶴之助を横綱免許を発給していた五条家に推薦した。 明治12年(1879年)12月、五女三島千代子が生まれる。 那須野ヶ原開拓 明治13年(1880年)、栃木県令になる以前から地方の開墾に熱意を示しており、栃木県の那須野ヶ原に開拓のため政府から約992haの土のを貸下げを受け、鹿児島士族ら18人と法人を設立。後の三島農場である。長男の彌太郎を社長、親交の深い部下14名を株主として入植者を募集した。同年10月、小林熊蔵他19名が、11月には島田新次ら14人が入植。事務所の南側約149haは碁盤目状に区画された。 明治14年(1881年)8月、明治天皇が東北巡幸、有栖川宮熾仁親王に名代として那須野を視察、その後、右大臣岩倉具視らも訪れた。10月、収穫米を献上、明治天皇から肇耕社(ちょうこうしゃ)と命名賜る。 三島は肇耕社敷地内に穀物の神である豊受姫大神を開拓者のために祀り、母智丘(もちお)神社を建立。現在の那須塩原市三島に別荘を構えた。那須には当時の区割りが現在も残っており、古くからの住人には開墾当初の入植者の子孫が多い。 明治19年(1886年)に肇耕社を解散して三島農場として再出発。 明治14年(1881年)2月、六女三島徳子が生まれる。 明治15年(1882年)7月、転任。なお、後任は折田平内である。
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