鶴岡一人との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:29 UTC 版)
鶴岡に引き立てられる格好で球界の第一線に躍り出たことから、鶴岡のことを「師匠」と慕ってはいたが、指導者になってからは「反面教師」とも述べていた。野村が晩年語ったところによれば、「自分は日本海に面した田舎の高校(峰山高校)までしか出ていなかったので、プロ(南海)で3年間勉強してから、母校の硬式野球部の監督を務めるつもりでいた。そのために、(現役時代の試合では)いつも、ノートと鉛筆をベンチに置いていた。もっとも、鶴岡さんから聞かれたのは『気合だ!根性だ!』『打てない?ぶつかっていけ!』という言葉ばかりで、最初のうちはノートにメモを取るほどのことを学べなかった。その意味で、自分にとっては本当に期待外れだった」という。鶴岡が南海の監督を勇退する意向を示した際に、他の幹部選手と共に鶴岡の自宅で翻意を試みたところ、「お前ら何しに来たんだ? 南海へ本当に貢献した選手は(1959年の日本シリーズで野村と組んで巨人打線を相手に4連投4連勝と奮闘した)杉浦だけだ」と言われたことも、鶴岡への反感と「考える野球」への傾倒につながったとされる。 現に、南海の監督職を解任された直後には、「鶴岡元老を初めとする南海OBの政治的圧力があった」と述べていた。この発言から「監督退任後も南海ホークスに対して支配力を発揮していた」とされる鶴岡との確執が原因の一つと考えられているが、解任の事情を知る関係者からは異なる見解が相次いで示されている。 例えば、野村から監督職を引き継いだ広瀬は、退任後の2014年に刊行された自著の中で「南海の監督を辞めてから鶴岡親分が監督人事に口を挟むことなど考えられなかったし突拍子もない言いがかりだと思った」「当時を思い起こせば監督夫人(後に正式に結婚する沙知代)が球場へ出入りしていろんなことに口出していてチーム内に不協和音が満ちていた。川勝傳オーナーが『泣いて馬謖を斬る』と、自分がもっとも信頼をおいていたノムやん解任に踏み切ったのも無理はなかったろう」と記している。 また、野村の南海在籍中にNHK大阪放送局報道部のチーフディレクターとして野村を取材していた毛利泰子は、野村の没後(2021年)に監督職解任直後の状況を証言。当時NHK大阪放送局の野球解説者だった鶴岡に対して「(前述した野村の『政治的介入』発言を親会社の南海)電鉄に打ち消してもらったらどうですか?」と進言したことをきっかけに、鶴岡が同局の幹部と共に南海電鉄の本社で協議した結果、球団代表(当時)の森本昌孝から鶴岡の介入を否定する発言、野村から「(鶴岡による介入云々の)発言に行き過ぎがあった」という趣旨の謝罪を引き出したことによって広瀬の監督就任へ至ったことを明かしている。鶴岡の長男である山本泰(野村に続いて2020年8月に永眠)も、法政大学野球部の監督在任中(1990 - 1993年)に東京六大学選抜チームを率いてハワイへ遠征した際に、現地で偶然出会った沙知代から「うちの主人(克也)は鶴岡さんに足を向けて寝たことがございません。(鶴岡さんに)宜しくお伝え下さい」という発言を耳にしたことを生前に語っていた。
※この「鶴岡一人との関係」の解説は、「野村克也」の解説の一部です。
「鶴岡一人との関係」を含む「野村克也」の記事については、「野村克也」の概要を参照ください。
- 鶴岡一人との関係のページへのリンク