鶴岡・山形県令とは? わかりやすく解説

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鶴岡(酒田)・山形県令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 03:44 UTC 版)

三島通庸」の記事における「鶴岡(酒田)・山形県令」の解説

明治7年1874年12月内務卿大久保利通により酒田県令(現在の山形県酒田市など旧庄内藩所管)に就任するこの人事には伊藤博文が関わったとされる着任早々課題は、ワッパ騒動呼ばれる農民抗議への対策であった。これは、旧庄内藩時代からの県令官吏が、明治政府布告無視して庄内藩時代同様の税と労役課したことに対す農民反抗であった三島官吏全面的に更迭するとともに農民に対して弾圧臨んだ翌年裁判により過納金を農民返すことで騒動決着した明治8年1875年次男三島弥二が生まれる。2月ワッパ騒動報告のため上京8月酒田県鶴岡県改名される。 同年、鳴学校海晏寺作り英才教育を行う。この学校には酒田渡川原の各学校より優等生120名を選んで入れる。 明治9年1876年7月三男三島弥六が生まれる。8月21日に、鶴岡県、旧山形県置賜県合併され現在の山形県設置されると、三島初代山形県令に就任した明治10年1877年)に着任するが、この時、「(明治十年三月)町口で岩切職員たち出迎え受けた通庸は、彼等用意した人力車香澄町(現・木の実町)の公邸に入る。公邸には薄井船越待っていた。(略)公邸は、水野氏山形最後藩主)の藩校経誼館を改築したもので、県庁兼ねている。通庸以前県令は、水野氏新御殿県庁にしていたが、大山形県となり、手狭なために通庸が、新御殿から通り隔てた経誼館に移した」という。なお、この年に、同郷同い年で共に精忠組一員として寺田屋騒動にも関わった義兄柴山景綱山形招き以後終生公務を共に進める。 明治10年1877年)、山形市内に湯殿山神社 (西川町本道寺)建立在任中に藩校経誼館を「庭を望む建物一部改築して、貴紳顕官接待所兼宿舎迎賓館にした。現在、経誼館のあとには教育会館建っているが、大正十五年、会館建設決議されるまではそっくり庭が残っていたという。(略)弥太郎下駄つっかけ気軽に出て行ったのは、迎賓館の東隣がローレツの官舎、庭を隔てた南隣が三島邸だからである」という。自身が住む官舎は、旧藩主の隠居であった茅屋とした。「立派な私邸どころか官舎居住していた。しかも茅葺陋屋である。後に煉瓦づくりの官舎新築されるが、そこに住んだのは、次の山形県折田平内から」だという。 山形での道路事業 山形県における政策中心は、道路・橋整備公共施設建築であった当時山形県から東京方面あるいは宮城県へ出るには山越えなければならず不便だったため、新道開削工事推進三島山形県になったときに、内務卿大久保利通県政方針問われ第一に新たな道路開いて交通の便良くすることを挙げると、三島主張聞いた大久保は「あまり一時に事業を行うのはどうか」と疑問投げかけたが、三島決断堅く大久保もそれを許したという。江戸時代まで、現在の山形県、特に庄内地方(旧鶴岡県)は、日本海最上川経由する舟運により、江戸よりも大坂強く結びついていた。しかし、明治時代陸運重視されると、陸路による東京までの交通整備進められた。 明治9年1876年)、東京東北諸県を結ぶ萬世大路万世大路)の一部である山形福島間の建設計画告示出し総額145千円工事金を地元負担とするように区長要請刈安新道 まず、米沢から福島へ出るための道として刈安新道計画それまで奥羽山脈越え山形福島間の道路は、川越石から栗子山の南鞍部通って福島市大滝に至るもので、この峠は標高高く地形急峻で、道路としての利便性は低いものであった。そのため、往来する人々板谷峠越えることが多かった予算おおよそ半分にあたる95千円費やし明治9年途中当時日本最長になる栗子山隧道掘削着工した東アジア初の本格的な山岳工事であり、栗子隧道掘削山形側の岩盤固いために難航した。そのため当時世界に3台しかないといわれていた蒸気エンジン米国削岩機導入削岩した穴にはニトログリセリン詰め爆破しながら進める大事業だった。同隧道明治14年10月貫通現場にいた三島は「ぬけたりと よう一声に夢さめて 通ふもうれし 穴の初風」との歌を残した。他にも覗橋 (上山市)などを整備した関山作並金山磐根加茂街道 山形仙台間の既存街道では、冬場積雪険しい山道のため、増加する人々往来物流に対応できないとして、馬車通れ新道整備行ったのである関山街道関山隧道関山トンネル)は、標高600メートル位置掘られ延長287メートル隧道で、この完成により山形から宮城県まで馬車での通行可能になった。また、雄勝峠加茂坂峠なども改良整備磐根街道開削中には温泉湧出草薙温泉となった小国新道 やはり峻険積雪時に通行困難な小国街道開鑿した。明治14年10月着工され、主に宇津峠舟形橋 (山形県)改良整備し明治19年秋に完成した途中にある片洞門は、明治16年竣功であった早坂新道 明治11年1878年)、山形市上山を結ぶ早坂新道開通。なお、この道明治20年文相森有礼東北学校視察する折に通り金瓶尋常小学校の生徒だった斉藤茂吉この道敬礼した当時造られ堅磐山形県上山市大字川口川原)、中山山形県上山市中山)、覗橋山形県上山市楢下)などが現存する羽州街道 主に上台峠常盤橋 (山形県)薬師山 (山形県金山町)猿羽根峠主寝坂峠などを改良整備した新橋山形県上山市楢下)、吉田橋山形県南陽市小岩沢明治13年竣工)が現存。 これらにより山形県産物陸路福島仙台出て、ついで奥州街道鉄道による東京へ輸送路が確立した結果、県経済活況呈した。「土木県令」とあだ名されたのも、ちょうどこの頃からである。これらの道は後に国道13号国道48号となり、トンネル橋梁代替わりバイパス道路化を経ながらも、明治時代以降物流変化によく対応し、現在でも県内主要道路であり続けているなど、山形県内陸部の交通インフラ整備には成果上げている。 公共施設建設 建築では、県庁病院学校などを当時としては大きな規模多数作った現存するものに旧済生館病院本館重要文化財)、旧東村山郡役所旧西村山郡役所旧東田川郡役所、旧西置賜郡役所(現文教の杜ながい)、鶴岡朝暘学校三川橋、などがある。現存しないものでは旧山形県庁舎がある。 済生館病院建造先立つ明治10年7月一等属の筒井明俊を病院建築掛に任命し長谷川元良院長と共に上京させて東京大学医学部病院陸軍病院横浜海軍病院といった東京・横浜方面病院建築実情視察させた。それと前後して三島上京して東京大学東京帝国大学前身医学長の三宅秀病院建築設計図作成依頼した。なお、筒井平面図作成。塔の部分山形県の十等出仕になった原口祐之によって完成明治17年には、高橋兼吉建設請け負っていた鶴岡警察署庁舎完成。 これらは擬洋風建築建てられたが、作業従事した棟梁たちがその後形式踏襲したため、東北地方には多数擬洋風建築存在することとなった米沢製糸明治9年1876年8月宮島誠一郎三島訪ねるその後宮島の提唱により士族授産のための製糸設立三島の下で進められた。 高橋由一による描画 明治14年山形市訪問した洋画家高橋由一は、これらの建築物都市の景観描いている。この時、高橋新道写生し石版画帖を刊行することを三島建言。これにより明治17年三島から石版画の製作を依頼高橋山形福島栃木の3県の新道描いて三島県令道路改修記念画帖」とした。石版画構成は、山形55図、福島53図、栃木20図で全128図である。 なお、天童出身菊地新学御用写真師として雇い入れ山形県施工しすべての土木事業撮影させている。特に、山形官庁街写真は、大通り全体見渡せ組んで撮影する大掛かりなものであった。 これらのうち現存する建物・遺構は、経済産業省により近代化産業遺産認定されている。 サクランボ栽培導入 明治9年1886年)、東京三田育種場北海道開拓使庁から果樹苗木取り寄せ山形市内の模範場に植えさせた。このうちサクランボ品種名は、最初に輸入した時の苗木につけた番号そのまま名称になったといわれ、黄玉8号ナポレオン10号などと呼ばれていた。現在は、品種改良により佐藤錦高砂ナポレオンなどが主流であるが、最近では紅秀峰紅さやか紅てまりなどの新品種も栽培されている。 西南戦争 明治10年1877年2月21日鶴岡士族不穏な動き見せるが、三島重病のため前年末から東京戻っており、船越内務大書記官現地派遣27日、「鶴岡士族西郷呼応す」との誤報により船越書記官薄井山形県大書記官仙台鎮台派兵依頼打電三島は病をおし東京を発つ。3月8日山形入り13日には県庁着いた庄内士族松平親懐会談し反乱の志がないことを確認した明治11年1878年8月四女三島鶴子生まれる。この年山形市訪れた英国人女性イザベラ・バードは、著書『日本奥地紀行』で、近代的な山形市街に受けた強い印象記している。 同年巡業山形訪れた力士朝日嶽鶴之助横綱免許発給していた五条家推薦した明治12年1879年12月、五女三島千代子生まれる。 那須野ヶ原開拓 明治13年1880年)、栃木県令になる以前から地方開墾熱意示しており、栃木県那須野ヶ原開拓のため政府から約992haの土のを貸下げを受け、鹿児島士族18人と法人設立。後の三島農場である。長男彌太郎社長親交の深い部下14名を株主として入植者募集した同年10月小林19名が、11月には島田新次14人が入植事務所南側約149haは碁盤目状区画された。 明治14年1881年8月明治天皇東北巡幸有栖川宮熾仁親王名代として那須野視察その後右大臣岩倉具視らも訪れた10月収穫米を献上明治天皇から肇耕社(ちょうこうしゃ)と命名賜る三島は肇耕社敷地内穀物の神である豊受姫大神開拓者のために祀り母智丘(もちお)神社建立現在の那須塩原市三島別荘構えた那須には当時区割りが現在も残っており、古くからの住人には開墾当初入植者の子孫が多い。 明治19年1886年)に肇耕社を解散して三島農場として再出発明治14年1881年2月、六女三島徳子生まれる。 明治15年1882年7月転任。なお、後任折田平内である。

※この「鶴岡(酒田)・山形県令」の解説は、「三島通庸」の解説の一部です。
「鶴岡(酒田)・山形県令」を含む「三島通庸」の記事については、「三島通庸」の概要を参照ください。

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