鶴岡、南海復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 17:15 UTC 版)
「南海蔭山新監督急死騒動」の記事における「鶴岡、南海復帰」の解説
11月19日、蔭山の密葬が午後2時から高石町の自宅で行われた。密葬後、オーナーの壷田は午後4時30分から南海電鉄本社で鶴岡に対し監督復帰を要望した。これに対して鶴岡は「親しい人と相談して明日までに返事を出す」と約束した。20日、蔭山の球団葬と告別式が13時より阿倍野の斎場で執り行われた。そして、鶴岡は葬儀に参列後そのまま南海電鉄本社へ向かい午後4時40分から「故蔭山監督の遺志を継ぐため再び南海のユニフォームを着ることにした」と語り、監督退任を撤回。鶴岡の南海復帰が正式に決定した。 鶴岡の南海復帰が決まったため、鶴岡の獲得を目指していた東京とサンケイは新たに監督を選任しなくてはならなくなった。永田は同日に東京都内で記者会見し、「縁がなかった。あきらめきれないが、あきらめるしかない。だが、パ・リーグに残ってくれたのがせめてもの慰めだ」と語った。一方で南海に対して「壷田君からは現在までなんの連絡もない」と批判した。サンケイ球団社長の友田も「招聘したかったが、南海の内部事情で実現できず残念。新監督は21日に発表することとしている」と語った。その後、サンケイはヘッドコーチの飯田徳治の監督就任を発表、東京も25日に二軍監督だった田丸仁の就任を発表した。 11月21日、鶴岡は上京して東京の永田、サンケイの水野両オーナーを訪れ、詫びの挨拶をした。永田は謝罪しようとした鶴岡の言葉を遮り、「プロ野球と日本人の人情は相いれないものがある。人情はもう今回で終わりにして、これからは人格を変えてやれよ」と忠告したという。 蔭山の急死によって、「鶴岡が南海退団後に監督就任を決めたチームは、東京とサンケイのどちらだったのか」が疑問として残されたが、鶴岡本人はこれ以後一切沈黙を保っていた。しかし、1985年に永田が死去した際に報道陣に対して「あの人(永田)のお世話になるつもりだった」と漏らした。
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