維新後の散逸とは? わかりやすく解説

維新後の散逸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 05:21 UTC 版)

ナポレオン三世の馬」の記事における「維新後の散逸」の解説

函館大経によると、連れてきた馬を飼う場所に困り駿河愛鷹牧の野馬改良兼ね同所移したが、飼う余裕がなく、馬はフランスより日本政府贈られたもので徳川私有でないとして新政府引き継ぐこととなった東京引き連れていったところ、受け取り拒否され山岡鉄舟相談した結果水戸尾張越前田安等の諸家配布、1頭を小松宮献上不良の1頭を函館大経もらったとのことである。馬の価値理解しなかったのは新政府やむなく馬を分けたのは旧幕という事になる。 白井市広報しろい』の記事大経談話裏付けるので、重複含め要約を示す。現白井市域に存在した冨塚牧士川上次郎右衛門が惣取締役となり、飼育方法伝授前述)に携った。関係資料牧士見習同格存在として後の戸長となった中村善太郎らしき名前がある。26名の別当前述)中、16名が白井市域の出身である。馬は行方不明となったが、近年様々な史料発見され行方少しずつ判明してきている。維新後勝海舟指示小野三郎大経)が沼津に馬を移し川上次郎右衛門が飼育担当任命され沼津移住した明治2年府中藩飼育しきれなくなり舟の裁断一部の馬を水戸尾張小松宮配った。うち、越前松平家へ2頭の引渡しの際の文書福井県文書館発見され小野三郎川上次郎右衛門の名が記されている。分配後に儀三郎残った1頭をもらい、次郎右衛門明治3年に冨塚戻った白井市域での巨大な馬に乗った次郎右衛門目撃談もある。 日本馬協会70年歩み』では、函館大経引取った馬は富士越で、流星栗毛の雄、明治3年招魂社での競馬人々驚かせた後、明治5年9月大経によって函館運ばれ明治8年から恵庭市にあった牧場種馬となった記している。 1870年明治3年根岸競馬函館大経日本人として初め競馬外国人勝ったとする資料がある。 1871年明治4年雑誌新聞雑誌』の「二号」には、5月15日招魂社祭で、日本人外国人4人で競馬行い、ついに日本人が勝ち、この日本人雉子橋門外牛馬商社鐵沓師との記事があると、1908年明治事物起源』にあり、馬は奥(奥州奥羽)産のアラビア馬との伝聞記している。『新聞雑誌』は木戸孝允創刊で、江戸東京博物館によると、「二号」は「ザンギリ頭を叩いてみれば」の戯歌が載った号で、発行5月である。執筆1871年5月15日より前なら、前述根岸競馬での函館大経の話と一致はするが、場所が異なる。 1871年明治4年12月9日仏国政府ヨリ旧幕府寄贈ノアラヒヤノ馬ニ付同公使好意ニ答フ』『仏国政府旧幕府ヘ差送ノアラヒア馬散逸ニ付取聚収方伺』があり、明治維新に伴う馬の散逸判る文書途上で馬を見たフランス公使指摘から、散逸した馬と雉子橋の厩で馬が何頭か確認できた事、雉子橋の馬は大切に扱われ繁殖にも役立っている事、飼育等は来日したフランス「有名の牧師カズノブ」に聞くべき事等とある。この日の文書提出は、1894年明治27年農商務省農務局『畜産要務彙集』でも裏付けられる。文書では、廃藩置県行った明治政府が、散逸後の馬の持ち主対し差し出させるのは甚だ不条理異例配慮示し持ち主対す特別な配慮と馬の回収消極的である事が判る小金牧高田台牧跡に広大な土地所有し迅速測図大隈邸と記載されるほどの家屋有していた大隈重信の名も見られる国内混乱もあるにせよ、公使からの指摘後の捜索開始は、明治政府の馬の重要性対する未認識政府側の不手際認識を示す。文書中、フランス公使に対して使われた「気の毒」という言葉は、本来の「気分を害する」の意として使われとしないと意味が通らない。馬は30頭とされている。 1872年明治5年4月5日付『先年仏国より厚意を以旧政府へ差送りたる亜刺亜馬の義に付大蔵省より掛合』では、馬が数頭とされ、別段蕃殖の姿も見えずフランス公使より度々苦情申立てがあり、大蔵省から兵部省に、馬のうち静岡県残っていた牡牝2頭を送るよう要請なされた。 同4月13日付『兵学寮より沼津兵学寮にアラヒヤ馬到着の儀に付申出』で2頭の到着確認できる1873年明治6年)、3月、澤護によると、再来日後のカズヌーフ自身による『産馬意見書』が提出されその中で馬は小金牧連れて行き、係の教育指導に当たる手筈だったが、突然の変事により御破算になり、その後、馬も離散したが、9疋の種馬確認していると記述がある。ここでも。幕府による馬の重視維新後の馬の散逸判る種馬牡馬を指すなら、ほとんどの牡馬確認されていた事になる。 3月14日付『元勧農用地雉子橋門外一棟置場一棟焼失』した。 6月、カズヌーフが明治政府雇用された。『函館ノ賊ニ応援スル仏国人ニ対シ遺憾ナキ旨ヲ公使ニ報ス』、フランス語原文とともに宮内省仏国馬術教師カズヌーフ雇入』の公文書が残る。 1874年明治7年6月28日29日、カズヌーフが東京出発し畜産調査のため、東北地方出発した。『官員並御雇教師牧馬蓄産為取調宮城県外七県』から、宮城より青森岩手福島山形・磐前・水沢之六県と帰路茨城に寄る予定であった帰路11月21日、カズヌーフが死去した詳細アンドレ・カズヌーヴ参照。 カズヌーフ死去前後について、1886年明治19年)の今泉六郎大日本馬種略』を再録した、1896年陸軍乗馬学校同名書に、最近慶応3年秋、フランス皇帝ナポレオン3世からアルジェリー種の良馬贈られ、この件について親しく詳細聞いた「鼓(正しくは支が皮)氏」の話の概略としての記述がある。飼司カズヌーフが馬をつれて来た事と本邦馬産改良希望したのである事の後に「然ルニ當路ソノ然ル所以ヲ察セズ徒ラニ尋常一様進物ノ觀ヲナシ盡ク之ヲ姻族重臣ノ間ニ分チ」「維新ノ后、余、浪華ニ在リ、夙ニ彼ノ優種ノ暴殄ニ瀕セルヲ慨シ」馬を探した事と福山藩にいた1頭は鼓の働きかけにより、兵部省経て宮内省所有となり、それが若紫である事、越前家残っていた3頭は旧家吉田某の私有となっており、事情により公有にならず、フランス人アマドーの手落ちた後、行方不明になった事が記されている。さらに、それより前、鼓が同行して奥羽牧場探究行ったが、カズヌーフが病に倒れ終に立たず、鼓の素志画餅帰したが、早く今日盛代に逢ったので、カズヌーフの鬼(魂)ももって瞑すべきであるとある。 鼓は『官員並御雇教師牧馬蓄産為取調宮城県外七県』にある、カズヌーフと共にいた東北赴いた鼓包武に一致する。澤護の論文とも一致する。鼓は馬の離散強く批判、馬の離散憤慨した時期を、維新後でかつ鼓が大阪にいたと記し離散維新後である事が判るになっている時系列上、解りにくい話の構成であるが、大経の話を裏付け、カズヌーフの話と一致する本邦の馬の改良希望したのは幕府とある事、カズヌーフの死後、旧親藩旧家臣から新政府ではなく、カズヌーフの母国人間に馬が渡り、その理由省略されている事から、馬の接収際し新政府側に、「ことごとく姻族重臣の間で分ける」等の不手際があり、その不手際を鼓が知っていた事が示唆される当時、鼓は大尉とはいえ長州出身陸軍軍人で、その意向反して新政府に馬を渡さなかった事から、アマドーはある程度権力行使できた人物なくてはならず、御雇外国人として記述された『兵部省代たる兵部少丞仏国アマド君との間に取極むる仮定約』『外務少丞御省雇外国人相渡臨時通行免状返却可申候』の、1871〜74年雇用され騎馬関係のフランス人アマド、『御雇外国人一覧』の騎兵関係のフランス人アマトルイと一致し被雇用はカズヌーフ死去の年までである。『馬学書印刷の義に付伺』では、フランス騎兵教師としてアマト、カスヌーフが並んで記され、ほか2人御雇外国人名がある。カズヌーフの俸給最初250円、後に300円、アマドーは150円で、ブリュネとも親しくフランス公使通じて日本政府苦情申入れるだけの力を持ったカズヌーフに馬が渡らなかった事、カズヌーフの死後、鼓が探したとある事から、3頭の馬は鼓により発見され、カズヌーフが見つけた9頭と別の可能性もあるが断定できない福山藩の1頭も、同様である。 1875年明治8年)の馬の動向について、1941年日本競馬会宮内省下総牧場における競走馬の育成調教』には、「明治8年勧農試験場より牽入れられ16頭のうち、著名な牝馬吾妻號はナポレオン三世から贈与された7頭中の1頭、佛アラ高砂號の持込馬で、蕃殖成績優秀、現今尚この血液受けたるもの多く今日下総牧場基礎となり、又本邦馬産地に散在し斯界の為忘れることのできない功績残してゐる」とあり、輸入馬の表に、老松佛國サラブレッド鹿毛高砂佛國アラブ芦毛記されている。 1877年明治10年)、村上要信は兼務先の取香種蓄場で、巴里名づけられたイロンデールを見たと『日本馬改良策』に記している。その後、イロンデールは駒場、ついで、上野飼われ一頭も子を産まなかったと記している。また、若干雉子橋の厩で見たともしているが、厩が火事になる前以外、時期については不明である。 今井吉平1910年『馬政学』に、馬は1861年文久元年日本着、カヅヌーフが付添って来たが、当事馬匹改良必要性知らず徒に権門貴顕与えてしまった、内一頭の牝巴里(アイヨンデール)号は1894年明治27年37歳斃死した等とあり、『取調書』と似た馬の一覧の表がある。フランス名のイロンデールをアイヨンデールとした点から見て今井吉平にはフランス語知識がなく、和訳された表をカタカナからカタカナへ英語読みで誤訳したもの推定される1894年37歳斃死したなら、生年1858年頃になるが、表には7歳とあり、1861年までに7歳になる事は不可能のため、本項の馬に関しては『馬政学』は信憑性欠ける。 馬の散逸時期維新前とすると、幕末とは言え将軍の馬を幕府関係者勝手に私物化した事になり、幕府による馬の重視とカズヌーフの重用なしでは、カズヌーフが伝習隊乗馬等を指導し、後に箱館戦争において重傷を負うまで幕府側について戦った事、大鳥圭介が『南柯紀行』で、函館へ向かう途中仙台旧師再会し互いに感激した旨を記した事が説明しにくい。また、大経具体的な話と矛盾する小金牧厩舎幕府脱走諸隊通った水戸街道市川流山間の道、戦闘があった鎌ヶ谷市川船橋から近く事情知らなくとも、維新最中略奪にあった可能性が最も考えやすい。前述通り一部略奪維新の時で、今井吉平維新武家社会対す常識江戸近郊の地理の知識欠け、この点でも信憑性がない。1899年明治32年陸軍騎兵実施学校宮崎鹿児島県産調査報告』に、日本到着1863年文久3年)とした後、鼓談話一部同様の記述があるが、散逸時期判る部分割愛されている。その後ナポレオン三世の馬についてまとめられているため、重複含めて示す。「慶応年間若干頭は薩摩に牽入れたるは更に疑無き如き確証なし。明治4年中は大蔵省牧畜所管雉子橋官邸未だ数頭養畜せられ居りたるも後ち行く所をかにせず。星青毛牝「パリス」号(明治4年雉子橋官邸養われしものの1疋)は一時駒場農学校畜養せられ後ち上野動物園移され明治27年に斃れたり本馬嘗て流産せし後遂に受胎せず。」ほかに、若紫明治初年兵部省、後、宮内省移され事と「アマドー」(馬術教師)の記述がある。兵部省明治元年には存在せず明治初年明治初め頃を指す。 1913年鹿児島県畜産史上巻』に、「最近に於いて著名なるは15代将慶喜慶応3年秋」の後、鼓談話とほぼ同じ記述があるが、「当路者」が「幕府当路執政」と変更され散逸時期を示す部分割愛されている。続けて、但し其の内若干頭は我薩藩に牽き入れられたること疑無けれ確証得ず、とある。文面通りなら、他の資料との整合性からも、維新後薩摩藩関係者私物化し、「若干」を薩摩持ち帰った事になる。前述明治政府による馬の持ち主への異例配慮とよく一致し、鼓の談話で馬の散逸名指しではないものの非難され散逸維新後判るになっている事と矛盾しない。同じ『鹿児島県畜産史上巻』には、文久3年に当記事の馬が贈られ薩摩比志島牧に「鹿毛にて星及び白毛混れる洋種牡馬5頭を入れたるが」「牧中の牝馬親和せずして一頭産駒だに得ざりし」「該牝馬漸く衰弱痒したりければ、御厨引上げたりとなん」と記した後、『宮崎鹿児島県産報告』とほぼ同じ内容記述諸書にある「若干は我薩摩に牽き入れられたりと云えば」この5疋ではないか、但し、口碑には英人医師ウルユスが船載せ馬匹と言うと記述がある。比志島牧は慶応元年廃止されたため、廃止前を指すなら、当記事の馬には該当しないまた、黒鹿毛等を入れて鹿毛の牡は3頭である。他のアラビア馬等との混同可能性否定できない一方小金牧から江戸10頭の牡が移送されたのに対し、後に確認され牡馬極端に少な事と矛盾せず、鹿児島子孫を残さなかったため、疑い確証がないという事とも合致する散逸責任幕府押しつける一方で、言わば自供したになっている点でも信憑性はある。ウルユスは、1877年明治10年)『7月23日 旧ウルユス館へ本日転移 軍団砲廠』等の資料から、実在し維新後鹿児島長期間滞在した人物確認できる時期、場所、国籍職業ウィリアム・ウィリス一致する。『南部馬史』では、後述広沢安任談話とよく似た記述と、「蚕卵紙報ゆるに我が有益にして殊に将軍の好めるを聞き之に贈答したる也」の記述がある。 1903年下総御料牧場要覧』の表に所有するサラブレッドが牝10、牡20、計30で、輸入年度内訳として牝の文久年間6、明治1013年計7の数字と、備考としてフランスから幕府への贈与記述がある。総数内訳合わず、牡の空欄のため、6頭は牝だけなのか牡牝合計なのか不明だが、30頭は1871年文書一致はする。同文書に基づいたなら、一致は当然である。

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