蔣介石 蔣介石の歴史的評価

蔣介石

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蔣介石の歴史的評価

中華民国

戒厳令時代には、中華民国の指導者・そして「中国4000年の道徳の体現者」として崇拝しなければならない対象とされ、蔣介石の銅像が台湾各地に建てられていた。学校には孫文と蔣介石の肖像画が必ず掲げられ、切手や新台幣には蔣介石の肖像ないしそれに関わる図案が必ずと言っていいくらいデザインされ、教科書でも蔣介石を神格化した。さらに蔣介石は台湾の高雄に澄清湖(チョンチンフー)という観光スポットを作り、そこには中興塔をはじめ八つの見所がある。これは中国大陸にある西湖をまねたものだといわれている。

戴国煇は「(蔣介石は)政治的にも軍事的にも戦術家としては一流であったが、戦略家の器ではなかった」と評し、後継者に息子の蔣経国を指名したことを「毛沢東は周恩来を信じられたが、蔣介石は息子以外誰も信じることができなかった。陽明学の信徒としての限界ではないか」としている。

だが1987年以降台湾の民主化が進むと、過去のさまざまな人権侵害が次々と表沙汰となり、蔣介石の独裁者としての側面が明らかとなった。特にひまわり学生運動以来、若者たちは言論の自由が守られているため、蔣介石の罪を非難し、政府はすべての真実を世に知らせるべきだと要求し始め、蔣介石の銅像への破壊行為や落書きも相次いでいる[103]

日本

[104]蔣介石を日本亡命中に庇護していた犬養毅頭山満とともに(1929年)
台湾を訪問した岸信介首相(中央)とともに(1957年)

蔣介石は、日本の高田の砲兵学校で軍事教育を受け、日本に亡命した際には日本政財界による支援で清朝打倒に奔走するほか、宋美齢との結婚式を日本で挙げることを希望していたなど、その後敵味方に分かれて戦うことになった日本と、生涯にわたり深い関係を持っていた。

1927年、蔣介石率いる国民革命軍が南京に入城すると、革命軍の一部が日・英・米などの領事館を襲撃した(南京事件 (1927年))。英米の軍隊がこの行為に対して徹底的に反撃を加えたのに対し、日本は死者を出しながらも無抵抗を貫いた(幣原平和協調外交)。

蔣介石は日本軍との戦いには消極的で、むしろ中国共産党を警戒していた。しかし張学良による西安事件が起こり、共産党や英・米と協力して、日中戦争から1945年までは日本軍と戦うこととなった。その時代、一貫して日本と行動を共にし英・米に対抗しようとしていた汪兆銘大東亜会議に参加し大東亜共同宣言に賛同していたことと対照的である[105]。その当時の蔣介石自身の日記では一転して日本を「倭寇」と表記し終始蔑んでいた。

  • 明治天皇を尊敬しており、戦後も総統代理として蔣経国を明治神宮へ公式参拝させている[106]
  • 第二次大戦中に、日本軍が拉孟・騰越の戦いで連合軍の大軍[107]を相手に戦い、それぞれ味方の6倍の損害を与えて玉砕したことを讃え、「東洋道徳の範とせよ」と中国軍に訓令を発している[108]
  • 戦後、台湾へ移ってからは、富田直亮少将を団長とする旧日本軍の将校団(白団)を招き、国府(中華民国国民政府)軍を秘密裏に訓練させた。米国政府はこれを厳しく非難し、国府軍内にも反対の声が挙がったが、蔣介石は白団による教育訓練を断固推進した。

日本の敗戦後は、8月15日に行った終戦演説で対日抗戦に勝利したことを宣言した一方で次のように国民に訴えた。

わが中国の同胞は、「旧悪を念わず」と「人に善を為す」ということがわが民族伝統の高く貴い徳性であることを知らなければなりません。われわれは一貫して、日本人民を敵とせず、ただ日本の横暴非道な武力をもちいる軍閥のみを敵と考えると明言してきました。今日、敵軍はわれわれ同盟国が共同してうち倒しました。彼らが投降の条項をすべて忠実に実行するように、われわれが厳格に督励することは言うまでもありません。但し、われわれは報復してはならず、まして無辜の人民に汚辱を加えてはなりません。彼らが自らの誤りと罪悪から抜け出すことができるように、彼らがナチス的軍閥によって愚弄され、駆り立てられたことに、われわれは、慈愛をもって接するのみであります。もし、かっての敵が行なった暴行に対して暴行をもって答え、これまでの彼らの優越感に対して奴隷的屈辱をもって答えるなら、仇討ちは、仇討ちを呼び、永遠に終ることはありません。これはわれわれの仁義の戦いの目的とするところでは、けっしてありません。これはわれわれ軍民同胞一人一人が、今日にあってとくに留意すべきことであります

戦後、日本の歴代政権は中華民国を反共陣営の一員として、また国連の常任理事国として修好に努めていたが、日本と中華人民共和国の間に国交樹立の機運が高まると中国国民党は危機感を強め、日本の保守メディアに急接近しさまざまな宣伝活動を行うようになった(代表例としてサンケイ新聞による蔣介石秘録の連載、國民新聞による反中国共産党パンフレットの発行、マスコミ総合研究所の雑誌アジア・レポートの発行)。

そのような中で、多くの自民党政治家や保守言論人が、上述の戦勝演説などをもとにした蔣介石による日本への寛大な措置を「以徳報怨」として礼賛するようになった[注釈 3]。2008年に平沼赳夫は「蔣介石が日本の天皇制を守ってくれた」と擁護し、「日本と中華民国の国交が断絶した後も、日本の政治家が中華民国を訪れた時は蔣介石の墓に参るのが礼儀であったが近年は行われなくなった」と批判した[112]。2009年には森喜朗が、金美齢の面前で「日本が今日あるのは蔣介石のおかげであり、日本人は蔣介石に感謝しなくてはならない」とのスピーチを行った[113]

蔣介石自身、日本人との会見を特に喜び、白団の存在がアメリカから問題視されたときには「彼らは米国が私を見捨てたとき、生命の危険を顧みずに助けに来てくれた、同志のような人たちだ。私の目の黒いうちに彼らを見捨てるようなことは断じてありえない」と即答したとされる。蔣緯国も「父は日本留学の経験もあり、日本人の生活作法や思想に共鳴していたと思う。日本に敬意を払い、学べるものは学び取ろうとしていた」とする。国家元首として日本人と会見するときには通訳を立てていたが、本人の日本語習熟度は高く、1971年に蔣介石と会見した在日台湾本省人が自分たちとそう変わらない日本語を話すのを聞いて驚いている[114]

中華人民共和国

中華人民共和国では、国共合作での蜜月はあったとはいえ建国の父の毛沢東のライバルである蔣介石はさまざまな媒体で否定的な評価をされてきたが、中華民国との貿易や中国国民党との党間交流が増えるに従って再評価が進められている[115]

例えば、馬英九政権で中華民国が中華人民共和国に接近した2009年に、蔣介石の孫で国民党副主席でもある蔣孝厳中国語版は中華人民共和国で制作された建国60周年記念の国策映画「建国大業」で、蔣介石が無益な戦いを憂えて台湾に避難した愛国者と描かれたことを「客観的な歴史評価」と称賛し[116]、台湾の国民党本部で毛沢東の孫とも対面し[117]、後に中華人民共和国で「中国は大きく変化した。統一され、強大で現代的な中国をつくるべきだ」と発言した[118]

なお、毛沢東の指示[119]で蔣介石の生家の蔣氏故居中国語版や祠堂(蔣氏宗祠)は文化遺産[120]として保護され、中国側は修繕費も出費しており[119]、1990年代から蔣孝勇など多くの蔣介石の親族(蔣経国や蔣緯国の妻や子供)が蔣家奉化祭祖中国語版のために度々中華人民共和国を訪れている[119]。蔣介石の遺族が蔣介石の遺体を大陸に帰葬することを主張して、台湾では波紋を呼んだことがある[121][122]


注釈

  1. ^ 死後の1976年に開催された第11回中国国民党全国代表大会(党大会)で改定された党規約では「永久総裁」とされ、総裁制度は事実上廃止された[1]
  2. ^ 第1、2隊長は張伯岐、第3隊は董夢蛟で攻撃目標は撫署。第4隊隊長は王金発中国語版で攻撃目標は軍装局。第5隊は旗城門下中国語版を占拠。1隊は15名からなり、10名が歩兵、5名が擲弾兵であった[13]
  3. ^ ただし、「以徳報怨」という文言自体は終戦時に蔣介石は述べておらず、喧伝されたイメージと実態はやや異なる[111]

出典

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