西南の旅とは? わかりやすく解説

西南の旅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 01:10 UTC 版)

松井石根」の記事における「西南の旅」の解説

昭和11年1936年2月3日蔣介石との関係を取り戻すために、田中正明伴って「西南の旅」に出発した広東広西胡漢民、陳済堂、李宗仁白崇禧西南派の指導者らと会談、さらに3月14日南京蔣介石何応欽張群らと会談している。蔣介石との会談1時間半及んだが、ほとんどが松井蔣介石二人だけ押し問答終わった最後に二人は、孫文アジア主義遂行互いに了解し合って別れた。しかし、別れぎわ蔣介石松井対し今後部下張群と話をしてくれ」と失礼な言動したため松井の顔が瞬間くもったという。(田中正明の言) 同年12月12日西安事件勃発。捕えられた蔣介石国共合作により抗日へと方針を180度転換した。ここに及んで蔣介石連携するという松井構想は完全に破綻した

※この「西南の旅」の解説は、「松井石根」の解説の一部です。
「西南の旅」を含む「松井石根」の記事については、「松井石根」の概要を参照ください。

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