叛逆と降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 07:31 UTC 版)
1929年(民国18年)、馮玉祥と蔣介石の対立が激化し、ついに衝突が不可避となる。しかし5月22日、石友三は韓復榘とともに馮玉祥への追随を放棄し、蔣介石に帰順した。これには蔣介石側からの贈賄の効果もあった。10月、石友三は安徽省政府主席に任命された。 この直後、湖南省の唐生智が石友三に蔣介石への叛旗を翻すよう密かに呼びかけてくる。そして12月、石友三は突然蔣介石に叛逆し、南京を砲撃した。これは蔣介石にとっても予想外のことで、一時大混乱となった。ところが、石友三は蔣介石に対抗し得ないことを覚ると、すぐに逃走し、河南省の韓復榘を頼った。 翌年の中原大戦では、石友三は再び反蔣介石に転じ、かつての上司である馮玉祥・閻錫山に付いた。石友三は第4方面軍総司令として蔣介石軍と戦う。馮玉祥・閻錫山の敗北が確定すると、石友三は張学良・韓復榘の斡旋により蔣介石に降伏した。蔣介石から第13路総指揮に任命されている。 ところが1931年(民国20年)、反蔣介石派が広州で国民政府を別に樹立すると、石友三はまたしてもこれに与し、広州国民政府から第5集団軍総司令に任命された。結局、同年8月には、張学良らに敗北し、山東省の韓復榘をまたしても頼って逃げ込んだ。1932年(民国21年)からは、石友三は華北の宋哲元の下で活動するようになる。また、この頃から、土肥原賢二など日本側と交渉を持つようになっていく。
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