叛服常無し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/19 02:03 UTC 版)
これ以後、李景林は張作霖からの自立を謀るようになる。同年11月に国民軍を率いる馮玉祥への攻撃を命じられると、郭松齢とともにこれを拒否した。ついには郭とともに馮と結び、張への叛旗を試みる。一時は、自軍を北方国民軍へと改編しようとした李だったが、次第に馮・郭が自分の地盤を奪おうとしているのではないかとの疑心を高める。結局、張の篭絡に応じて、馮・郭の討伐に転じた。 12月8日、李景林と馮玉祥の間で戦闘が開始され、馮配下の張之江率いる3個路が天津に迫った。李景林は日本やドイツの軍事顧問の指導で楊村(現武清区)に屈強な陣地を構築しており、10日~15日までの間に国民軍に死者4000人の損害を与え、16日に張之江を更迭せしめた。しかし、張の後任の李鳴鐘は19日の積雪に乗じて、白い羊の皮を被った擬装兵に陣地周辺で爆竹や花火を鳴らさせ攪乱する奇策を行って楊村を陥落させ、一気に国民軍が優勢となる。同月末に李は天津を放棄して、山東省の張宗昌を頼り、直魯聯軍を結成した。1926年(民国15年)2月、李は国民軍への反撃を開始したが、国民軍の前にまたしても劣勢となり、自軍のほとんどを喪失した。それでも日本軍や張学良率いる奉軍の支援のおかげで、3月下旬に国民軍は天津から撤退した。 天津の戦いで李景林の活動は振るわなかったが、それでも張作霖の下で雌伏することを望まなかった。そして孫伝芳・馮玉祥・靳雲鶚(直隷派)と結んで叛旗を翻そうと謀るに至る。しかし事前に発覚し、6月に奉軍の張学良や褚玉璞に制圧されてしまい、李は下野した。 同年9月、中国国民党の北伐に対抗しようと、李景林は孫伝芳と会い、北京政府側の各派による大連合の結成を進言したが、孫はそれを拒否した。1927年(民国16年)3月、北伐軍が優勢となるのを見ると、李は今度は国民党に加わろうとしたが、その途上の4月に褚玉璞に逮捕されてしまう。しかし日本の仲介で李は釈放され、日本を経由して南京入りし、蒋介石から直魯軍招撫使に任命された。もっとも、北伐の過程における李の活動は振るわないものであった。
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