経過概略とは? わかりやすく解説

経過概略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 07:21 UTC 版)

八鹿高校事件」の記事における「経過概略」の解説

但馬地方では、部落解放同盟支部1973年結成され差別糾弾闘争行政闘争活発化した。一方、それを批判する動き現れた。 そのような状況下の1974年1月同和地区在住八鹿高校女子生徒Nと交際をしていた男性父親YH兵庫県幹部職員)が「あの部落出入りしていたら、お父さん、お母さんはT地区中でも人に気がねしなければならない。Nさんを諦めてほしい。同和行政は口でこそ言っているが、本物ではなく部落の人同士結婚前提として行われているにすぎない」といった手紙長男送っていた事実が、長男により明らかにされた(いわゆるYH結婚差別事件。なお、この事件に際しては、部落解放同盟兵庫県連合会糾弾闘争費として行政3000万円を要求し1500万円支給受けた)。この出来事結婚差別事件として問題になり、それと前後して但馬地方別の高校でも、女生徒が同じ理由失恋し家出後に奈良凍死するという事件(「生野女子生徒自殺事件」)が発生したこうした事件の発生を受け、1974年5月八鹿高校部落出身生徒らが日本社会党(現・社会民主党系統部落解放同盟系統部落解放研究会(以下、「解放研」と書ことがある。)の設置高校申請。この解放研とは、生徒自主的な要求運営されるものではなく、また教師指導のもとに運営されるものでもなく、第一に部落解放同盟指導を受け、確認・糾弾行動隊として運営される組織であってそのこと部落解放同盟1974年運動方針にも明記されていた。 したがって当初校長教頭職員会議決定に基づき解放研の設置認可しなかったが、主犯丸尾良昭を含む部落解放同盟員らや解放生徒らにより長時間糾弾を受け、心身ともに限界達す状況の中で、職員会議決定無視して解放研の設置認可与えた。しかし八鹿高校には既に生徒自治会職員会議認められ部落問題研究会存在しており、一般教員部落解放研究会設置認めなかった。部落解放同盟は、こうした一般教員の対応差別として批判した。なお、当時八鹿高校普通科1年生だった解放メンバー女性によると、「解放研も3分の1くらいは一般地区生徒でした」 という。 11月18日朝には八鹿町内にいわゆる解放車が入り八鹿高校糾弾叫んだ解放歌を流したりするようになり、八鹿高校正門前では部落解放同盟員らが八鹿高校教職員対す非難ビラ配っていた。不穏な空気察知した教職員たちは、11月20日から集団城崎民宿宿泊し自衛のために個人行動避け集団登校するようになった11月21日教職員たちは城崎対策会議開きその結果部落解放同盟による動員状況から22日糾弾起きることは必至」と判断。しかし22日当日行動については意見一致見ず、一応登校するだけはして、その後判断同和教育主任一任することとした。 11月22日朝、教職員たちが集団登校すると、2台の解放車にぴったり付きまとわれ「この教師たち笑顔いつまで続くんでしょうか」などと意味深な放送をされた。このとき、ビラ配っていた部落解放同盟員が教師揉めた際、他の部落解放同盟員が割り込んで今は行かしたれ」と仲間制止したり、別の部落解放同盟員から「お前ら今日楽にしたるわな」と脅されたりし、リンチ予測させる異様な雰囲気漂っていた。 教職員たちが八鹿高校内に到着すると、校内にはゼッケン鉢巻をした部落解放同盟10数名入り込み校庭には糾弾集会用の投光器据えつけられ、糾弾会準備整っていた。このため同和教育主任提案でただちに職員会議開かれ22日授業中止して教職員全員集団下校することが決まった午前9時40分から45分頃のことである。 それに対し解放同盟兵庫県教組本部などによって結成されていた八鹿高校差別教育糾弾共闘会議側は、ピケット・ラインピケ)を張って制止した共闘会議側は、教師らを暴力校内に連れ戻し体育館などで「糾弾会」として自己批判書を書かせる事態発展した。このとき、教師側に負傷者出た体育館解放部室などでは自己批判書を書くまで以下のような状況繰りひろげられた。 「解放部室内で、右構成員らは、教諭らをそれぞれ数名取り囲み殴打足げにし、首を絞めつけ、バケツ汚水浴びせ牛乳飲み残し首筋注ぎ南京錠頭部殴打し、足を踏みつけ煙草の火を顔面押しつけるなどし、「殺してやる」、「二階の窓から落としてやる」などと脅迫して自己批判書等の作成強要した。」(『八鹿朝来暴力事件 検察官論告要旨』より) 下校していた解放以外の生徒たち部落解放同盟解放生徒らによる糾弾暴行事件発生伝え救出求める「町内デモ」を決行暴行を受ける教師たち救出訴えた。この事件部落解放同盟側が採った糾弾様式は「インディアン方式」と称するもので、ターゲット周り糾弾者たちが環を作りぐるぐる回り拡声器を被糾弾者の耳元寄せて罵声浴びせるというものである被害教師全員が約12時45分にわたる監禁ののち解放されたのは、午後10時45分頃のことであった事件後、日本共産党支持不支持超えて生徒先頭部落解放同盟対す18,000人参加という大規模な町民抗議集会が行われ、大半町民集会参加して教職員側を支持部落解放同盟員らが多数逮捕され但馬地方での一連の襲撃事件、すなわち 元津事件 - 1974年9月9日部落解放同盟40人〜50人が 兵庫県朝来郡朝来町路上兵庫県教職員組合朝来支部長橋本哲朗など部落解放同盟批判的な10名を取り囲み、約10時間にわたり「割り木殴り殺したろか」「大根みたいに切り刻んでやろか」「差別者、糾弾する」「ビラ撒いたやろ」「1日で済む思った大間違いだ。1週間でも10日もやってやる」などと怒号し、なおかつ左足踏みつける・足を蹴る・小突くなどの暴力をふるい、同人らを不法に監禁した事件事件後も橋本には耳鳴り難聴などの障害残った橋本哲朗宅・木下元二議員包囲事件 - 部落解放同盟員らは1974年10月20日から朝来町橋本哲朗宅の近所テント張り、「橋本哲糾弾闘争本部」の看板掲げて「お前を殺して部落解放されるんだ」などとマイクアジテーション行っていたが、10月22日になるとさらにエスカレートし10月26日まで最盛時は連日500名〜2000名で 橋本宅を取り囲みハンドマイク肉声で「橋本糾弾」「橋本出て来い」「お前は完全に包囲されている。今すぐ出てきなさい。わしらを怒らせたら怖いぞ」「子供可愛くないのか」「最後の最後まで闘うぞ」などと怒号し、橋本不法に監禁また、10月22日橋本宅を訪れた木下元二衆院議員日本共産党)たちが自動車退出しようとしたのを認めるや、部落解放同盟員らがこの自動車後方の溝の上寝転びお前たちが車をバックさせたら殺人者として法廷に出んならんことは明らかだお前たちの車がちょっとでも動いてみろ、殺人者だ」などと怒号し、この自動車発進不可能ならしめ、木下らを橋本宅に引きこもることを余儀なくさせた上、橋本宅を多数部落解放同盟員で取り囲みマイクで「差別集団日本共産党宮本一派よ、お前たち階級の裏切り者階級の敵である」などと怒号し、「日本共産党糾弾」「部落解放同盟闘うぞ」「最後の最後まで闘うぞ」などとシュプレヒコール繰り返し、約4時30分にわたり同人たちを不法に監禁した事件監禁中、橋本一家は朝から戸や窓を閉め切りカーテンを引き、夜も電灯消して屋内暗くする生活を余儀なくされ、家族全員不眠症となり、事件後もPTSD心身の健康を害した認定された。 生野駅・南真弓公民館事件 - 部落解放同盟員らが1974年10月25日兵庫県朝来郡生野町国鉄播但線生野駅ホームにて民青同盟員たち20名を取り囲み、頭・顔・腕などを殴打し、首や背中蹴り髪の毛引っ張り付近マイクロバス拉致し、南真弓公民館に連れ込んで不法に監禁し、約4時30分にわたり再び顔面背中殴る蹴るの暴行加え毛髪引っ張りタバコの火を手に押しつけハンドマイク耳元当てて「なんで(部落解放同盟批判するビラ配ったか」「リーダー誰だ」などと怒号し、加療5日から2週間傷害を負わせた事件新井駅事件 - 部落解放同盟員らが1974年10月26日国鉄播但線新井駅前付近にて、35歳33歳男性顔面殴打し頭部角材殴打し、また胸部大腿部を蹴るなどの暴行加え骨折頭部裂創などの傷害を負わせた事件青倉駅前事件 - 部落解放同盟員らが1974年10月26日国鉄播但線青倉駅前付近にて、35歳男性など4名の顔面手拳殴打し、足で大腿部蹴り加療1週間から3週間傷害を負わせた事件大藪公会堂事件 - 部落解放同盟員らが1974年10月27日25歳男性ならびにその47歳父親対し集団暴行加え顔面胸部などを手拳平手殴打し腹部脚部腰部足蹴りした事件。 と一括した形で起訴された。また、部落解放同盟員以外にも、八鹿高校校長八鹿警察署署長兵庫県教育委員会同和教育指導主任社会教育主事らが逮捕監禁強要罪などの容疑送検され、うち校長同和教育指導主任についてはそれぞれの罪が認められながらも、神戸地検判断起訴猶予となった署長については容疑不十分で不起訴処分となった。これらを含め本事件における不起訴者は177名に及ぶ。被害規模大きさ比べて起訴された者が少なかったのは、集団暴力事件特異性により、3名以上の被害者から犯行特定された者に限って起訴されたためである。 刑事裁判では一審二審とも、一連の事件背後には部落解放同盟日本共産党対立があり、解放研を認めなかった対応について教職員らの対応はいかにも性急差別的と見られる余地があり、不適切な対応であると指摘されたものの、 「本件糾弾の手段、方法社会的に相当と認めれる(ママ程度明らかに超えており、また法益侵害程度も重大であって法秩序全体見地からすると逮捕監禁罪強要罪可罰的違法性阻却するとは到底いいがたい。すなわち、本件逮捕監禁罪強要罪の手段、方法は、判示のとおり、立脇履物店前座りこんだ47名の八鹿高校教諭らに対し白昼公道上で多数の者が殴る、けるなどの激し暴行加えその手足を持って引きずるなどした後トラックまたはマイクロバス乗せ、あるいは両腕をとって連行するなどしたもので(有形力の行使が、弁護人主張のごときスクラムをはずす、腕をとるという程度でなかったことは、前認定のとおりである。)、いわば公衆面前一方的に被害者らに暴力振るうとともにその自由を拘束した評され300メートル離れた八鹿高校第二体育館に連れこんだ後も同所会議室解放部室などに多数包囲威圧ないし看視でもって監禁し負傷のため入院必要がある認められた者以外はきわめて長時間被害者のうち、23名はいわゆる総括糾弾会終了まで12時30分)にわたって同校から自由に脱出できない状態にしたうえ、その間多数の者が言葉によるきびしい糾弾加えて41名の被害者に対してはさらに判示のとおり、第二体育館など各所において、殴る、ける、冷水あびせるなどの大規模執拗な暴行加えて自己批判迫ったというものであって有形力の行使が、弁護人主張のごときをたたくという程度でなかったことは前認定のとおりである。)、糾弾のためとしても社会的に相当と認められる程度明らかに超えている。このような手段方法真にやむをえないとは到底いいがたいことは明らかである。これにより多数被害者長時間わたって行動の自由を侵害され、またその意に反した文書作成余儀なくされるとともに前記一連の暴行によって43名の多きにのぼる被害者が相当期間の加療入院加療を含む)を要する傷害負ったもの(最長加療期間を要する者は、骨折をともなう傷害当初診断加療期間が2か月である)であって被害者らに与えた精神的肉体的影響甚大であり、法益侵害程度も重大であるとの評価免れがたい」(神戸地裁における刑事判決より) と判断し被告全員執行猶予付き有罪判決下し1988年3月29日大阪高裁原審支持した1990年11月28日最高裁の上棄却により部落解放同盟メンバー13名の有罪確定その内訳は 被告人1(部落解放同盟兵庫県連合会支部支部長) - 懲役3年執行猶予4年罪名逮捕監禁致傷傷害強要) 同2(部落解放同盟兵庫県連合会南但地区支部連絡協議会青年部副部長) - 懲役2年執行猶予3年 同3 - 懲役2年執行猶予3年 同4(部落解放同盟兵庫県連合会南但地区支部連絡協議会青年部長、青年行動隊長) - 懲役2年執行猶予3年 同5(部落解放同盟兵庫県連合会薮崎支部支部長) - 懲役2年執行猶予3年 同6(部落解放同盟兵庫県連合会真弓支部支部長) - 懲役1年6月執行猶予3年 同7 - 懲役1年執行猶予3年 同8 - 懲役1年執行猶予3年 同9 - 懲役1年執行猶予3年10 - 懲役10月執行猶予2年11 - 懲役10月執行猶予2年12 - 懲役8月執行猶予2年13部落解放同盟兵庫県連合会薮崎支部書記長) - 懲役6月執行猶予2年 というものであったこの他部落解放同盟兵庫県連合会南但地区支部連絡協議会青年部副部長青年行動隊副隊長兼ね同盟員1名が公判中に死亡し公訴棄却となっている。 それに続く1996年2月8日暴行傷害犯人らに対す民事訴訟でも、総額3000万円の損害賠償請求最高裁確定した。また兵庫県と県教委八鹿高校事件での「原告全員慰謝料支払うという和解に応じて裁判終結した。なお、この民事訴訟第一審判決では、刑事訴訟第二審判決における部落解放同盟寄り判断、すなわち 「(ハンガーストライキをしている解放生徒そのまま校内放置して集団下校したことについて)自校生徒立場思いやるという教育的配慮乏しく教育者として適切さを欠く点があった」 「いかにも早急思いきった態度であり、現にハンガーストライキをしている生徒やその父兄心情含め同校全体教育的見地への配慮を十分かつ慎重に行ったうえのものであるかどうかについても大い問題となる」 に対し、「解放研の性格実態解放生徒要求する『話合い』の内実等を仔細に検討すれば、右の指摘果して正鵠射たものかどうか疑問なしとしないのである」と批判加えられている。すなわち、解放研の性質について重大な危険性明確に認定しなおかつ解放研との話し合い拒否について差別性がないことを認定し、さらに集団下校についても無理からぬ緊急避難裁判所公に認定したのであるこのように刑事民事ともに解放同盟側の非が認定されたにもかかわらず2010年1月主犯丸尾良昭が「八鹿闘争勝利記念碑建立委員会」を名乗り兵庫県朝来市に「八鹿闘争勝利記念碑」なる石碑建立した。碑の裏側には 1974年11月八鹿高校部落出身生徒は、差別なき社会実現教育求めて教師話し合い申し入れた教師はこれを拒否生徒抗議断食入った。南但馬部落命運をかけて、差別糾弾教師らを反省させ生徒の命を守った権力弾圧峻烈極めたが、14年裁判の後1988年5月大阪高裁教師不当性、憲法14条に根拠を置く糾弾闘争正当性判決した。この八鹿闘争結集した万人闘い尊び記念碑建立する。よき日の為に 2010年1月 八鹿闘争勝利記念碑建立委員会 と、解放同盟の「勝利」を宣言する文章刻まれている。しかしこの碑の「勝利」という文字は、真っ赤な文字でたびたび「敗北」といたずら書きされている。 なお、争いそもそもの焦点となった解放教育」と「同和教育」は事件後に両方とも衰退し部落解放同盟側の「解放研」は事件から3年ほどで廃部となり、生徒自治会職員会議認められた「部落研」も1979年頃に廃部となった

※この「経過概略」の解説は、「八鹿高校事件」の解説の一部です。
「経過概略」を含む「八鹿高校事件」の記事については、「八鹿高校事件」の概要を参照ください。

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