経過概略
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但馬地方では、部落解放同盟支部が1973年に結成され、差別糾弾闘争と行政闘争が活発化した。一方、それを批判する動きも現れた。 そのような状況下の1974年1月、同和地区在住の八鹿高校女子生徒Nと交際をしていた男性の父親YH(兵庫県幹部職員)が「あの部落に出入りしていたら、お父さん、お母さんはT地区の中でも人に気がねしなければならない。Nさんを諦めてほしい。同和行政は口でこそ言っているが、本物ではなく、部落の人同士の結婚を前提として行われているにすぎない」といった手紙を長男に送っていた事実が、長男により明らかにされた(いわゆるYH結婚差別事件。なお、この事件に際しては、部落解放同盟兵庫県連合会が糾弾闘争費として行政に3000万円を要求し、1500万円の支給を受けた)。この出来事が結婚差別事件として問題になり、それと前後して但馬地方の別の高校でも、女生徒が同じ理由で失恋し家出後に奈良で凍死するという事件(「生野女子生徒自殺事件」)が発生した。 こうした事件の発生を受け、1974年5月、八鹿高校の部落出身生徒らが日本社会党(現・社会民主党)系統・部落解放同盟系統の部落解放研究会(以下、「解放研」と書くことがある。)の設置を高校に申請。この解放研とは、生徒の自主的な要求で運営されるものではなく、また教師の指導のもとに運営されるものでもなく、第一に部落解放同盟の指導を受け、確認・糾弾の行動隊として運営される組織であって、そのことは部落解放同盟の1974年度運動方針にも明記されていた。 したがって当初、校長と教頭は職員会議の決定に基づき解放研の設置を認可しなかったが、主犯丸尾良昭を含む部落解放同盟員らや解放研生徒らにより長時間の糾弾を受け、心身ともに限界に達する状況の中で、職員会議の決定を無視して解放研の設置に認可を与えた。しかし八鹿高校には既に生徒自治会と職員会議で認められた部落問題研究会が存在しており、一般教員は部落解放研究会の設置を認めなかった。部落解放同盟は、こうした一般教員の対応を差別として批判した。なお、当時八鹿高校普通科1年生だった解放研メンバーの女性によると、「解放研も3分の1くらいは一般地区の生徒でした」 という。 11月18日朝には八鹿町内にいわゆる解放車が入り、八鹿高校糾弾を叫んだり解放歌を流したりするようになり、八鹿高校の正門前では部落解放同盟員らが八鹿高校教職員に対する非難のビラを配っていた。不穏な空気を察知した教職員たちは、11月20日から集団で城崎の民宿に宿泊し、自衛のために個人行動を避け、集団で登校するようになった。 11月21日、教職員たちは城崎で対策会議を開き、その結果「部落解放同盟による動員状況から22日に糾弾が起きることは必至」と判断。しかし22日当日の行動については意見の一致を見ず、一応登校するだけはして、その後の判断は同和教育室主任に一任することとした。 11月22日朝、教職員たちが集団登校すると、2台の解放車にぴったり付きまとわれ「この教師たちの笑顔はいつまで続くんでしょうか」などと意味深な放送をされた。このとき、ビラを配っていた部落解放同盟員が教師と揉めた際、他の部落解放同盟員が割り込んで「今は行かしたれ」と仲間を制止したり、別の部落解放同盟員から「お前ら、今日は楽にしたるわな」と脅されたりし、リンチを予測させる異様な雰囲気が漂っていた。 教職員たちが八鹿高校内に到着すると、校内にはゼッケンや鉢巻をした部落解放同盟員10数名が入り込み、校庭には糾弾集会用の投光器が据えつけられ、糾弾会の準備が整っていた。このため、同和教育室主任の提案でただちに職員会議が開かれ、22日の授業は中止して教職員全員で集団下校することが決まった。午前9時40分から45分頃のことである。 それに対し、解放同盟や兵庫県教組本部などによって結成されていた八鹿高校差別教育糾弾共闘会議側は、ピケット・ライン(ピケ)を張って制止した。共闘会議側は、教師らを暴力で校内に連れ戻し、体育館などで「糾弾会」として自己批判書を書かせる事態に発展した。このとき、教師側に負傷者が出た。体育館や解放研部室などでは自己批判書を書くまで以下のような状況が繰りひろげられた。 「解放研部室内で、右構成員らは、教諭らをそれぞれ数名で取り囲み、殴打、足げにし、首を絞めつけ、バケツの汚水を浴びせ、牛乳や飲み残しの茶を首筋に注ぎ、南京錠で頭部を殴打し、足を踏みつけ、煙草の火を顔面に押しつけるなどし、「殺してやる」、「二階の窓から落としてやる」などと脅迫して自己批判書等の作成を強要した。」(『八鹿・朝来暴力事件 検察官論告要旨』より) 下校していた解放研以外の生徒たちは部落解放同盟と解放研生徒らによる糾弾暴行事件発生を伝え救出を求める「町内デモ」を決行、暴行を受ける教師たちの救出を訴えた。この事件で部落解放同盟側が採った糾弾の様式は「インディアン方式」と称するもので、ターゲットの周りに糾弾者たちが環を作り、ぐるぐる回り、拡声器を被糾弾者の耳元に寄せて罵声を浴びせるというものである。被害教師全員が約12時間45分にわたる監禁ののち解放されたのは、午後10時45分頃のことであった。 事件後、日本共産党支持・不支持を超えて生徒を先頭に部落解放同盟に対する18,000人参加という大規模な町民抗議集会が行われ、大半の町民も集会に参加して教職員側を支持。 部落解放同盟員らが多数逮捕され、但馬地方での一連の襲撃事件、すなわち 元津事件 - 1974年9月9日、部落解放同盟員40人〜50人が 兵庫県朝来郡朝来町の路上で兵庫県教職員組合朝来支部長の橋本哲朗など部落解放同盟に批判的な10名を取り囲み、約10時間にわたり「割り木で殴り殺したろか」「大根みたいに切り刻んでやろか」「差別者、糾弾する」「ビラ撒いたやろ」「1日で済む思ったら大間違いだ。1週間でも10日でもやってやる」などと怒号し、なおかつ左足を踏みつける・足を蹴る・小突くなどの暴力をふるい、同人らを不法に監禁した事件。事件後も橋本には耳鳴りや難聴などの障害が残った。 橋本哲朗宅・木下元二議員包囲事件 - 部落解放同盟員らは1974年10月20日から朝来町の橋本哲朗宅の近所にテントを張り、「橋本哲朗糾弾闘争本部」の看板を掲げて「お前を殺して部落が解放されるんだ」などとマイクでアジテーションを行っていたが、10月22日になるとさらにエスカレートし、10月26日まで最盛時は連日500名〜2000名で 橋本宅を取り囲み、ハンドマイクや肉声で「橋本糾弾」「橋本出て来い」「お前は完全に包囲されている。今すぐ出てきなさい。わしらを怒らせたら怖いぞ」「子供が可愛くないのか」「最後の最後まで闘うぞ」などと怒号し、橋本を不法に監禁。また、10月22日、橋本宅を訪れた木下元二(衆院議員、日本共産党)たちが自動車で退出しようとしたのを認めるや、部落解放同盟員らがこの自動車後方の溝蓋の上に寝転び「お前たちが車をバックさせたら殺人者として法廷に出んならんことは明らかだ。お前たちの車がちょっとでも動いてみろ、殺人者だ」などと怒号し、この自動車の発進を不可能ならしめ、木下らを橋本宅に引きこもることを余儀なくさせた上、橋本宅を多数の部落解放同盟員で取り囲み、マイクで「差別者集団日本共産党宮本一派よ、お前たちは階級の裏切り者、階級の敵である」などと怒号し、「日本共産党糾弾」「部落解放同盟は闘うぞ」「最後の最後まで闘うぞ」などとシュプレヒコールを繰り返し、約4時間30分にわたり同人たちを不法に監禁した事件。監禁中、橋本一家は朝から戸や窓を閉め切り、カーテンを引き、夜も電灯を消して屋内を暗くする生活を余儀なくされ、家族全員が不眠症となり、事件後もPTSDで心身の健康を害したと認定された。 生野駅・南真弓公民館事件 - 部落解放同盟員らが1974年10月25日、兵庫県朝来郡生野町の国鉄播但線生野駅ホームにて、民青同盟員たち20名を取り囲み、頭・顔・腕などを殴打し、首や背中を蹴り、髪の毛を引っ張り、付近のマイクロバスに拉致し、南真弓公民館に連れ込んで不法に監禁し、約4時間30分にわたり再び顔面や背中に殴る蹴るの暴行を加え、毛髪を引っ張り、タバコの火を手に押しつけ、ハンドマイクを耳元に当てて「なんで(部落解放同盟を批判する)ビラを配ったか」「リーダーは誰だ」などと怒号し、加療5日から2週間の傷害を負わせた事件。 新井駅事件 - 部落解放同盟員らが1974年10月26日、国鉄播但線新井駅前付近にて、35歳と33歳の男性の顔面を殴打し、頭部を角材で殴打し、また胸部や大腿部を蹴るなどの暴行を加え、骨折や頭部裂創などの傷害を負わせた事件。 青倉駅前事件 - 部落解放同盟員らが1974年10月26日、国鉄播但線青倉駅前付近にて、35歳の男性など4名の顔面を手拳で殴打し、足で大腿部を蹴り、加療1週間から3週間の傷害を負わせた事件。 大藪公会堂事件 - 部落解放同盟員らが1974年10月27日、25歳の男性ならびにその47歳の父親に対し集団暴行を加え、顔面や胸部などを手拳や平手で殴打し、腹部や脚部や腰部を足蹴りした事件。 と一括した形で起訴された。また、部落解放同盟員以外にも、八鹿高校校長や八鹿警察署署長や兵庫県教育委員会同和教育指導室主任社会教育主事らが逮捕監禁・強要罪などの容疑で送検され、うち校長や同和教育指導室主任についてはそれぞれの罪が認められながらも、神戸地検の判断で起訴猶予となった。署長については容疑不十分で不起訴処分となった。これらを含め、本事件における不起訴者は177名に及ぶ。被害規模の大きさに比べて起訴された者が少なかったのは、集団暴力事件の特異性により、3名以上の被害者から犯行が特定された者に限って起訴されたためである。 刑事裁判では一審、二審とも、一連の事件の背後には部落解放同盟と日本共産党の対立があり、解放研を認めなかった対応について教職員らの対応はいかにも性急で差別的と見られる余地があり、不適切な対応であると指摘されたものの、 「本件糾弾の手段、方法は社会的に相当と認めれる(ママ)程度を明らかに超えており、また法益侵害の程度も重大であって、法秩序全体の見地からすると、逮捕監禁罪、強要罪の可罰的違法性を阻却するとは到底いいがたい。すなわち、本件の逮捕監禁罪、強要罪の手段、方法は、判示のとおり、立脇履物店前に座りこんだ47名の八鹿高校教諭らに対し、白昼公道上で多数の者が殴る、けるなどの激しい暴行を加え、その手足を持って引きずるなどした後トラックまたはマイクロバスに乗せ、あるいは両腕をとって連行するなどしたもので(有形力の行使が、弁護人の主張のごときスクラムをはずす、腕をとるという程度でなかったことは、前認定のとおりである。)、いわば公衆の面前で一方的に被害者らに暴力を振るうとともにその自由を拘束したと評され、300メートル離れた八鹿高校第二体育館に連れこんだ後も同所や会議室、解放研部室などに多数の包囲と威圧ないし看視でもって監禁し、負傷のため入院の必要があると認められた者以外はきわめて長時間(被害者のうち、23名はいわゆる総括糾弾会終了まで約12時間30分)にわたって同校から自由に脱出できない状態にしたうえ、その間も多数の者が言葉によるきびしい糾弾に加えて41名の被害者に対してはさらに判示のとおり、第二体育館など各所において、殴る、ける、冷水をあびせるなどの大規模で執拗な暴行を加えて自己批判を迫ったというものであって(有形力の行使が、弁護人主張のごとき机をたたくという程度でなかったことは前認定のとおりである。)、糾弾のためとしても社会的に相当と認められる程度を明らかに超えている。このような手段、方法が真にやむをえないとは到底いいがたいことは明らかである。これにより多数の被害者が長時間にわたって行動の自由を侵害され、またその意に反した文書の作成を余儀なくされるとともに、前記一連の暴行によって43名の多きにのぼる被害者が相当期間の加療(入院加療を含む)を要する傷害を負ったもの(最長の加療期間を要する者は、骨折をともなう傷害で当初診断の加療期間が2か月である)であって、被害者らに与えた精神的、肉体的影響は甚大であり、法益侵害の程度も重大であるとの評価を免れがたい」(神戸地裁における刑事判決より) と判断し、被告全員に執行猶予付き有罪判決を下し、1988年3月29日、大阪高裁も原審を支持した。1990年11月28日、最高裁の上告棄却により部落解放同盟のメンバー13名の有罪が確定。その内訳は 被告人1(部落解放同盟兵庫県連合会沢支部支部長) - 懲役3年、執行猶予4年(罪名は逮捕監禁致傷・傷害・強要) 同2(部落解放同盟兵庫県連合会南但地区支部連絡協議会青年部副部長) - 懲役2年、執行猶予3年 同3 - 懲役2年、執行猶予3年 同4(部落解放同盟兵庫県連合会南但地区支部連絡協議会青年部長、青年行動隊長) - 懲役2年、執行猶予3年 同5(部落解放同盟兵庫県連合会薮崎支部支部長) - 懲役2年、執行猶予3年 同6(部落解放同盟兵庫県連合会南真弓支部副支部長) - 懲役1年6月、執行猶予3年 同7 - 懲役1年、執行猶予3年 同8 - 懲役1年、執行猶予3年 同9 - 懲役1年、執行猶予3年 同10 - 懲役10月、執行猶予2年 同11 - 懲役10月、執行猶予2年 同12 - 懲役8月、執行猶予2年 同13(部落解放同盟兵庫県連合会薮崎支部書記長) - 懲役6月、執行猶予2年 というものであった。この他、部落解放同盟兵庫県連合会南但地区支部連絡協議会青年部副部長と青年行動隊副隊長を兼ねる同盟員1名が公判中に死亡し、公訴棄却となっている。 それに続く1996年2月8日、暴行傷害犯人らに対する民事訴訟でも、総額約3000万円の損害賠償請求が最高裁で確定した。また兵庫県と県教委も八鹿高校事件での「原告全員に慰謝料を支払うという和解に応じて裁判は終結した。なお、この民事訴訟の第一審判決では、刑事訴訟の第二審判決における部落解放同盟寄りの判断、すなわち 「(ハンガーストライキをしている解放研生徒をそのまま校内に放置して集団下校したことについて)自校の生徒の立場を思いやるという教育的配慮に乏しく、教育者として適切さを欠く点があった」 「いかにも早急で思いきった態度であり、現にハンガーストライキをしている生徒やその父兄の心情を含め同校全体の教育的見地への配慮を十分かつ慎重に行ったうえのものであるかどうかについても大いに問題となる」 に対し、「解放研の性格と実態、解放研生徒の要求する『話合い』の内実等を仔細に検討すれば、右の指摘が果して正鵠を射たものかどうか疑問なしとしないのである」と批判が加えられている。すなわち、解放研の性質について重大な危険性を明確に認定し、なおかつ、解放研との話し合いの拒否について差別性がないことを認定し、さらに集団下校についても無理からぬ緊急避難と裁判所が公に認定したものである。 このように刑事民事ともに解放同盟側の非が認定されたにもかかわらず、2010年1月、主犯丸尾良昭が「八鹿闘争勝利記念碑建立委員会」を名乗り、兵庫県朝来市に「八鹿闘争勝利記念碑」なる石碑を建立した。碑の裏側には 1974年11月、八鹿高校の部落出身生徒は、差別なき社会実現の教育を求めて、教師に話し合いを申し入れた。教師はこれを拒否、生徒は抗議の断食に入った。南但馬の部落は命運をかけて、差別を糾弾、教師らを反省させ生徒の命を守った。権力の弾圧は峻烈を極めたが、14年の裁判の後1988年5月大阪高裁は教師の不当性、憲法の14条に根拠を置く糾弾闘争の正当性を判決した。この八鹿闘争に結集した幾万人の闘いを尊び、記念碑は建立する。よき日の為に 2010年1月 八鹿闘争勝利記念碑建立委員会 と、解放同盟の「勝利」を宣言する文章が刻まれている。しかしこの碑の「勝利」という文字は、真っ赤な文字でたびたび「敗北」といたずら書きされている。 なお、争いのそもそもの焦点となった「解放教育」と「同和教育」は事件後に両方とも衰退し、部落解放同盟側の「解放研」は事件から3年ほどで廃部となり、生徒自治会と職員会議で認められた「部落研」も1979年頃に廃部となった。
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