王監督時代(ダイエー時代)
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「福岡ソフトバンクホークス」の記事における「王監督時代(ダイエー時代)」の解説
1995年 前年のチームの躍進に加え、王貞治の監督就任、石毛・工藤の加入、大物外国人であるケビン・ミッチェルを獲得する等、期待された。しかし、ミッチェルは開幕戦で満塁本塁打を放つも横柄な態度を繰り返し無断帰国。前年活躍した松永・カズ山本・吉永・ライマー、移籍の石毛等が怪我や不調。前年奮闘した投手陣も軒並み不調・怪我人続出で工藤以外、全く計算が出来ない状況だった。2年目の小久保が28本塁打で本塁打王を獲得したが、チームは首位オリックスと26.5ゲーム差の5位に終わった。 1996年 序盤から低迷し4月下旬には最下位に転落。5月9日に日生球場での対近鉄戦で敗戦し、9勝22敗となると、試合後に王や選手等が乗ったバスにファンから生卵がぶつけられる事件が発生した(詳細は後述)。シーズンは、日本ハムから移籍の武田一浩が15勝、3年目のヒデカズ(渡辺)が防御率リーグ3位、6年目の村松有人が58盗塁で盗塁王を獲得するが、小久保は前年の活躍でマークされ打率を大幅に下げ、秋山はチームバッティングに徹して久々に3割をマークするものの、本塁打が僅か9本に終わる。工藤も最多奪三振のタイトルを獲得するものの、リーグ最多敗戦。結局、首位オリックスと22ゲーム差の最下位に終わった。この年で南海時代から19年連続Bクラスとなり、それまで広島が記録した連続Bクラス日本記録である1950年から1967年までの18年連続を更新した。 1997年 前年に行われたアトランタオリンピックの野球日本代表で大活躍した井口忠仁・松中信彦がドラフトで入団。3年目の城島健司が開幕から正捕手として起用された。前年終盤からマスクを被り、この年、正捕手になった城島は規定打席到達、3割2桁本塁打を放ち、それまで正捕手だった吉永が指名打者で3割29本塁打を放ち、小久保が打点王を獲得するが、井口がオープン戦で故障。復帰初戦初本塁打が満塁ホームランとなり、鮮烈なデビューを飾るが、その後はプロの洗礼を浴びる。松中も金属バットから木製バットへの対応が遅れ、戦力にならず、投手陣も前年の勝ち頭、武田が好投しても全く勝てず、工藤以外に計算出来る投手が不在であった。最終的には日本ハムと同率の4位、20年連続のBクラスに終わった。連続4位以下の記録は近鉄の1950年から1968年までの19年連続 を更新する日本プロ野球ワースト記録となった。 1998年 前年に発覚したプロ野球脱税事件に関与した小久保・ヒデカズ・斉藤貢・本間満・藤井将雄の5選手が3-8週間の出場停止処分を下され、開幕からしばらく出場出来なかった。更に小久保は復帰して間もなく大怪我でシーズンを棒に振る。エース工藤、ストッパー岡本克道がシーズン途中で離脱。苦しい中、2年目の柴原洋・井口がレギュラーを獲得。主砲小久保の出場停止と怪我の穴埋めに、広島で活躍したルイス・ロペスを急遽獲得。武田が最多勝、吉田修司が最多ホールド獲得、近鉄から移籍の西村龍次もローテーションを守り、5年ぶりの10勝を挙げ、カムバック賞を獲得。結果オリックス・ブルーウェーブと同率の3位に入り、南海時代から続いていた連続Bクラスの記録は20年で止まる(5連敗で閉幕するも、後にオリックスも西武とのダブルヘッダーに連敗して閉幕し同率となった。共に勝率.500だが、ダイエーは67勝、オリックスは66勝で、勝利数はダイエーが上回っていた)。ただし、前年度の順位がオリックスの2位に対し、ダイエーは同率4位だった為、翌1999年の本拠地開幕権を獲得出来なかった。 この年、「球団職員がアルバイト学生に金銭を渡し、相手捕手のサインを応援バットの動きで選手に教えさせていた」という疑惑が西日本新聞の報道で持ち上がった。疑惑を持たれた選手は吉永幸一郎・大道典良・柳田聖人で、写真付きで大々的に報じられたために問題となったが、フロントはこれを強く否定。その後パ・リーグ特別調査委員会による調査がおこなわれ、翌1999年1月18日に「疑惑を完全には払拭できない」という結論を出して球団社長らに対して職務停止などの制裁を科した。スパイ行為は本拠地(福岡ドーム)で行われていたと報道されたが、疑惑の3選手の打率を他球場と比較したところ、2選手については本拠地での打率が僅かに高かったが、残りの1選手は本拠地の打率の方が低かった[要出典]。 翌年からダイエーは西武と肩を並べる常勝球団になっていく。 1999年 前年オフにFAで武田が中日へ移籍し、さらにライバル・西武に松坂大輔が入団したことにより優勝争いは西武が本命でダイエーの評価は低かったが、この年、投手コーチとして就任した尾花高夫が手腕を発揮する。武田や、離脱した西村の穴を2年目の永井智浩・星野順治を抜擢し、共に10勝をマーク、同じく2年目の篠原貴行が中継ぎながら14勝1敗で最高勝率のタイトルを獲得。藤井が最優秀中継ぎ投手、工藤が最優秀防御率・最多奪三振・シーズンMVP獲得。若田部が不振を脱出し5年ぶりに10勝する。結果、長年課題と言われていた投手力で福岡移転後初のリーグ優勝を達成。この時、シーズン終了直前まで総得点が総失点を下回り、史上初の珍事かと話題になったが、最終的には総得点が上回った(総得点563、総失点553)。サヨナラ勝ち12回は12球団最多だった。更に日本シリーズでは中日ドラゴンズを4勝1敗で下し、日本一となった。秋山が2本の本塁打とファインプレーでシリーズMVPを獲得し、西武時代の1991年に続き、史上初の2球団での日本シリーズMVP獲得者となった。 2000年 FAでエース工藤が抜け、藤井が肺癌のため、離脱したものの、前年とは逆に打撃陣がチームを引っ張り、リーグ2連覇を達成する。日本シリーズでは長嶋茂雄率いる巨人との対戦で「ON対決」と話題となった。開幕から敵本拠地で2連勝したが、その後4連敗で敗れた。なお、同年のチーム最多勝は先発では若田部・永井の9勝。一方リリーフで吉田・篠原が9勝しており、2桁勝利投手0人でのレギュラーシーズン最高勝率や日本シリーズ出場は史上初である。 この年の日本シリーズは第2戦と第3戦の間、第5戦と第6戦の間の移動日がなく、第3戦までの3連戦から2日空けて第4戦から4連戦という変則日程となった。これは1997年に福岡ドームが、2000年の日本シリーズ開催日として予定されていた10月24日から10月27日までの4日間を、日本脳神経外科学会のイベントを開くために球団の許可なく貸し出したためである。1998年秋に問題が発覚し、日程変更等を求めたが不可能となり、球場変更等を模索したものの、これも出来ず、脳神経外科学会が26日のイベントを午前で打ち切る等、一部縮小して対応したため、この様な変則日程となった。なお、この問題は球団が球場確保を怠った責任があるとしてNPBは3,000万円の制裁金を球団に科した。 この年は20世紀最後のペナントレースだったので、ダイエーは「20世紀最後のパ・リーグ優勝球団」となった。 2001年 終盤まで近鉄・西武と優勝争いしたが、最終的に近鉄と2.5ゲーム差の2位に終わり、3連覇を逃した。この年、優勝した近鉄には19勝9敗と大幅に勝ち越したものの、西武ドームと千葉マリンスタジアム&宮城球場で3勝11敗とビジターで弱かったのが敗因となった。この年は30本塁打以上の選手が4人出る等(パ・リーグ初)ダイハード打線と呼ばれる打線が猛威を振るった(小久保44本・松中36本・城島31本・井口30本でチーム全体では203本塁打)。 2002年 5月14日と5月15日、台湾の台北市立天母棒球場で、日本プロ野球の公式戦としては戦後初となる台湾での試合が開催された(対オリックス戦。試合は1勝1敗、詳細は後述)。しかしその後、正捕手城島が怪我で離脱する等、チームは失速。首位西武と16.5ゲーム差、近鉄と同率の2位に終わる。この年のオフ、秋山が現役引退。勝ち頭だった若田部がFAで横浜へ移籍した。 2003年 オープン戦で小久保が膝に重傷を負ってシーズンを棒に振ったが、代役として三塁に入った川﨑宗則が活躍。前年まで1982年以来21年連続で負け越していた西武にも16勝12敗と勝ち越し、全球団に勝ち越し、3年ぶりのリーグ優勝を達成。阪神との日本シリーズを4勝3敗で制し、4年ぶり6度目 の日本一を達成した。打線はチーム打率が日本新記録となる.297で、打率3割の打者が6人、また、史上初の100打点の選手を1チームで4人(井口109打点・盗塁王も獲得、松中123打点・打点王を獲得、城島119打点・シーズンMVPを獲得、ペドロ・バルデス104打点)出し、この「100打点カルテット」を中心に活躍した(詳細はダイハード打線を参照)。投手陣は、前年4勝ながら開幕投手となった斉藤和巳が20勝を挙げ、パ・リーグでは18年ぶりの20勝投手となった他、新人ながら14勝を挙げて新人王となった和田毅、同じくルーキーの新垣渚、2年目の杉内俊哉の3人の「松坂世代」投手、そして寺原隼人等の前年とは全く一新された先発投手陣の活躍があった。しかし、優勝パレード直後の11月3日に小久保が巨人へ無償トレードされる事が発表され(小久保事件)、多くのファンのみならず、選手・関係者からも抗議が殺到した。 翌年からプレーオフ、2007年からはクライマックスシリーズが導入されたので、ダイエーは「年間勝率1位によるリーグ優勝 = 日本シリーズ進出を経験した最後のパ・リーグ優勝球団」となった。 2004年 先発投手陣には不調・怪我人が出るものの、打線がこの年も健在。松中が打撃三冠王を獲得しMVPになった。28歳新人の三瀬幸司が抑え投手として活躍し、最優秀救援投手となり、新人王に選ばれた。ベストナインにも4名が入った。レギュラーシーズンを1位で終えたが、この年から新たに導入されたプレーオフ第2ステージで西武に2勝3敗で敗れ、リーグ優勝を逃した。10月に秋山が二軍監督として球団に復帰した。井口がシカゴ・ホワイトソックスに移籍。 10月13日、経営再建をしていたダイエーが自主再建を断念して産業再生機構への支援を要請し、機構側が「国営ホークスになる事は無い」と語った事から球団の売却が濃厚になる。一方で、オリックスと近鉄の合併問題に端を発したプロ野球再編問題等も絡み、ロッテとダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」を発足させる案が取り沙汰された事もあった。観客動員数の伸び悩みや千葉市の財政難等に苦しむマリーンズ側と、親会社の経営難に苦しむ一方で、地理的に近い韓国への足がかりを狙っており、韓国にもプロ野球球団を持つロッテに大きな魅力を感じていたホークス側の思惑もあり、ロッテとの合併説も強く噂される事となった。しかし、最終的には11月30日にIT企業大手のソフトバンクが球団を総額200億円で買収することを正式発表し、同日付でNPB(日本プロフェッショナル野球組織)への加盟申請を行い、12月24日に加盟申請(球団譲渡)がプロ野球オーナー会議で承認され、翌年1月28日にダイエーが持つ球団株式(所有割合98%、残りの2%は中内正ダイエーオーナーが継続保有)をソフトバンクが50億円で譲り受けることで、問題は決着した。 同時にソフトバンクとホークスタウンは営業譲渡と合わせ、20年間の福岡ドーム使用契約を結んだ。1年間の球場使用料は48億円となる。また、同日付でコロニー・キャピタル傘下のホークスタウンが所有する興行権を150億円で取得する営業譲渡契約を締結する事で、合意し、ソフトバンクは新球団名福岡ソフトバンクホークスと球団ロゴマークを発表。なお、次項に掲載しているマスコットや球団の応援歌等についてはダイエー時代のものを必要最小限の変更に留め、そのまま継承する事を合わせて発表した。 2022年現在、福岡ダイエーホークスに所属経験のあるソフトバンクの現役日本人選手は和田毅・明石健志の2人。
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王監督時代(ソフトバンク時代)
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2005年 1月28日、ソフトバンクがダイエーの保有していた球団株式と興行権を取得し、福岡ドームの使用契約を締結することで名実ともに「福岡ソフトバンクホークス」のスタートを切った。また、監督の王が球団の取締役副社長兼ゼネラルマネージャーに就任することも発表された。 新チームマークは英語の「S(SoftBank)」と「h(Hawks)」を組み合わせたもので、チームロゴに挿入されている黄色の2本線はソフトバンクのCIロゴをアレンジしたもの(元々は海援隊の旗印から取った物)である。 戦力面では近鉄からFA宣言した大村直之、大リーグでの通算214本塁打のトニー・バティスタを2年総額1,500万ドル(約15億8,000万円)、シアトル・マリナーズでプレーしていたホルベルト・カブレラを年俸2億8,000万円で獲得。 1月30日にファン交流イベント「The First Reception 2005」が福岡Yahoo!JAPANドームで行われ、新ユニフォームや新応援歌、2005年のスローガンなどが発表された。応援歌は歌詞などの一部を改定した(「ダイエー」の部分を「ソフトバンク」に変えた)のみでそのまま引き継がれた。 3月9日、6月28日と6月29日に予定されていた対ロッテ戦の韓国開催がソウルで試合ができなくなったことと、韓国プロ野球の人気低迷から採算が合わないと判断されたため、中止されることとなった。この2試合はロッテ側の主催試合だったため、千葉マリンスタジアムで代替開催された。 開幕直後はロッテが首位に立つが、セ・パ交流戦終盤からの15連勝や本拠地ヤフードームでの12連勝で首位に立つとその後は首位を譲らず王監督時代のホークスとしては最多となる89勝を記録し、1位となる。しかし、2位とのゲーム差は4.5で、前年に続きプレーオフで1勝のアドバンテージを得るための条件「5ゲーム差以上」には届かず、城島の負傷離脱、松中の不振が最後まで響いてプレーオフでは2勝3敗で敗れている。オフに城島がシアトル・マリナーズにFA移籍。 2006年 交流戦は20勝16敗で5位。7月5日、ヤフードームでの対西武戦後に王監督が記者会見を開き、胃の手術のため休養することを発表し、翌日からシーズンオフまでチームを離脱した。監督代行は森脇浩司チーフコーチが務めた。シーズンは首位北海道日本ハムファイターズと5.5ゲーム差の3位に終わる。プレーオフ第1ステージで西武と対戦し2勝1敗で下すが、続く第2ステージで日本ハムと対戦し、2連敗して敗退した。ヤクルトを自由契約となったリック・ガトームソンを獲得。巨人からFA宣言した小久保が復帰。横浜ベイスターズから寺原とのトレードで多村仁を獲得。 2007年 前年オフの大型補強により、優勝の最有力候補に挙げられていたが、川﨑・斉藤・大村・新垣渚・小久保など主力選手に故障者が続出した。チーム打率・チーム防御率がともにリーグ1位だったが、シーズンを通じて波に乗れず、首位日本ハムと6ゲーム差の3位に終わる。多村・松中・小久保の3人が「TMK砲」と呼ばれ期待されるが、3人合計で53本塁打にとどまった。クライマックスシリーズ第1ステージでもロッテに1勝2敗で敗れ、4年連続のポストシーズン敗退となった。 2008年 セ・パ交流戦では15勝9敗で阪神と勝率、勝ち数で並んだが、交流戦の前年順位(9位=ソフトバンク、10位=阪神)で順位を決定する規定により、初優勝が決まった。シーズン後半になると中継ぎ投手陣や川﨑など故障者が出た影響で打線の不振が目立つようになり、9月1日時点では2位だったが、9月は5勝18敗と大きく負け越す。球団側は王を終身監督とする意向があったが、9月23日、王監督が体調不良を原因に今シーズンを最後に勇退することを発表した。10月7日のリーグ最終戦で同率最下位で並んでいた楽天とのKスタ宮城での直接対決でサヨナラ負けで敗れる。最終的に64勝77敗3分、1996年以来12年ぶりの最下位となった。チーム防御率は1点台以上悪化し、投手コーチの杉本正は解任された。二軍はウエスタン・リーグで24年ぶりの優勝を決め、ファーム日本選手権ではヤクルトを破り初の日本一となった。王の後任はチーフコーチの秋山幸二。王は球団副社長から会長に昇任し、引き続き球団に残った。
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王監督時代
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1984年-1988年 藤田政権の「トロイカ体制」で助監督を務めていた王貞治が監督として指揮を執るが、1984年・3位→1985年・3位→1986年・2位(優勝した広島とゲーム差なし、勝率3厘差)→1987年・優勝→1988年・2位と1987年に1度優勝したのみで、同年の日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退。1988年には本拠地が後楽園球場から東京ドームへと変わったが、吉村禎章やウォーレン・クロマティのリタイアが響いて結果は2位、優勝した中日に12ゲーム差をつけられる。クロマティに代わって新入団の呂明賜が一時ブレイクした。王はこの年限りで監督を引責辞任。同オフに西本聖は中日・中尾孝義と2対1のトレード。また1985年のドラフトで巨人を熱望していた清原和博ではなく同じPL学園のエースで大学進学といわれた桑田真澄を指名、入団となった。 1987年、二軍がこの年から始まったファーム日本選手権の初代日本一に輝く。
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