主要な家族・親族
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以下、その他の家族・親族も含め主要な人物を列記する。基本情報や生年没年月日の出典は。 祖父・中島慶太郎(中島撫山) 1829年5月14日(文政12年4月12日)生 - 1911年(明治44年)6月24日没 中島家第12代当主。亀田鵬斎門下の五俊秀と称され、埼玉県南埼玉郡久喜町に開いた漢学塾「幸魂教舎」の門弟は千数百人にのぼる。慶太郎の父は、中島清右衛門(良雅)。異母弟には画家の中島杉陰がいる。 先妻・紀玖との間に、長男・靖(号は綽軒)を儲け、紀玖が安政の大地震で死去した後は、後妻・きく(よし)との間に、六男四女(ふみ、端蔵、辣之助、美都、若之助、開蔵、志津、田人、比多吉、うら)を儲けた(美都は早世)。撫山の墓は神式で埼玉県久喜市の光明寺にある。 後妻・きく(敦の祖母)は、須坂の士族・亀田氏の出自。「よし」という名前だったが、結婚後「きく」と呼ばれた。撫山が亡くなった後は、このきくが幼い孫・敦の訓育を担った。この家には、先妻・紀玖の長男・靖(綽軒)の娘たち(敦の従姉ら)も住んでいた。 父・中島田人 1874年(明治7年)5月5日生 - 1945年(昭和20年)3月9日没 慶太郎ときくの五男(慶太郎にとっては六男)。 父や兄(端や竦)のもと「幸魂教舎」で学び、1902年(明治35年)5月に検定試験(漢文科)に合格し漢文科教員の免許を取得した後、兄たちの関わった「明倫館」をはじめ複数の学校で教員を務めた。田人自身は息子の敦に漢文を教えてはいなかった。 チヨと離婚した後は、実科女学校で裁縫教師をしていた紺家カツと再婚。カツの死去後は、大阪出身で幼稚園の教師をしていた飯尾コウと再婚した。カツはしまり屋で、コウは浪費家だったという。敦はコウのことを物質崇拝の「縁なき衆生」と軽蔑していた。 敦の多感なころは父子の折り合いもよくなかったとされ、2人目の継母コウがやって来た当初、父に反抗的な態度をとってひどく殴られたことなどが習作草稿の「プールの傍で」で描かれている。当時の敦の同級生・小山政憲も「中島君の家庭的な不幸は誰でもよく知っていた」と語っている。 しかしながら、コウの死去後、敦の病没の直前には漢籍について家で話すなど関係が改善していたという。田人は敦に他人行儀な接し方をしていたが、敦が自慢の種で他の者にはいつも「敦は、敦は」と子煩悩な面を見せていた。敦の死後はすっかり意気消沈し、吾子を失った悲しみの歌を残している。 母・チヨ 1885年(明治18年)11月23日生 - 1921年(大正10年)7月3日没 旧姓名は岡崎千代子。実家は東京市四谷区箪笥町で、岡崎勝太郎、きの夫妻の長女として生まれた。岡崎家は、元は小さな旗本だったという。チヨは元小学校教員の大変な才女で、敦の優秀さは中島の家系のみではないとも言われている。敦を背中に背負ったまま義父・撫山の漢籍の素読を聞いていたという話も残っている。 田人との離婚の原因は家事が不得手だったからとも、チヨに不貞があったからとも言われる。離婚後も復縁を望み、田人も許していたが、敦の伯母・志津や伯父・斗南の反対で叶わなかった。のちに桜庭進平と再婚し幸雄を儲ける。 敦12歳の年、敦の写真を抱いて病死したという。その写真は、敦の従兄・盛彦(叔母・うらの息子)が撮ったもので、チヨが病気になった時に頼まれて送ったという。母・きのの家(四谷区左門町)で亡くなったチヨの墓は港区の高徳寺にある。 敦の6歳年下の異父弟にあたる桜庭幸雄は詩人で、NHKを定年退職後、若いころから書き溜めていた作品を纏めた詩集3冊や俳句集を出版した。幸雄の次男の顔は敦に似ているという。 異母妹・澄子 1923年(大正12年)3月11日生 - 2021年(令和3年)12月15日没 父・田人と継母・カツの長女。カツは澄子を産んで間もなく肺炎で亡くなったため、当時京城にいた敦の従姉・婉(綽軒の長女)がしばらく世話をし、その後に伯母・志津が来て澄子が歩き始めるまで世話をしたという。 共立女子専門学校を卒業し、長く高校の家庭科の先生として務めた。折原氏と結婚し、一(いち)を儲ける。敦の甥に当たる、この折原一は小説家である。澄子は兄・敦の死後に、回想文として「兄と私」(1976年の筑摩書房版『中島敦全集 第一巻』月報1)や、「兄のこと」(1989年の田鍋幸信著『中島敦・光と影』)、「兄敦の思い出」(2009年久喜・中島敦の会『中島敦と私――中島敦生誕100年記念』)を記している。 伯父・靖(中島綽軒) 1852年10月27日(嘉永5年9月14日)生 - 1906年(明治39年)6月19日没 慶太郎と紀玖の長男で中島家の第13代当主。結婚し一男五女(婉、賾臣、那都、春中、緒留、彌生)を儲ける。 敦は浜松や京城にいたころ、近所にいた綽軒の長女・婉(敦の従姉)の一家と交流し、婉の二女の長根翠(敦の3歳下)や、翠の友人・藤井とし子と親しくしていた。敦が京城龍山地区の青葉町の長屋で伯母・志津と住んでいたころは、婉一家も同じ長屋にいた。藤井とし子は結婚後に猪原とし子となり、1979年(昭和54年)に出版した随筆集『あかしや』の中で「中島敦さんの事」という随想文を掲載している。 綽軒の孫に当たる中島家第15代当主の甲臣(さきおみ)(14代当主の賾臣(もとおみ)の息子)は北海道大学を卒業し北大で数学の教授を務めた。定年退職後は北海道武蔵女子短期大学に移り、1988年(昭和63年)に「中島敦・覚え書――行為と思索」という論文を発表した。 伯母・ふみ 1857年6月19日(安政4年5月28日)生 - 1943年(昭和18年)2月18日没 慶太郎ときくの長女。「婦美」とも書く。医師の河野氏と結婚し一男をもうける。夫と死別し、九州大学医学部に進学した長男も敗血症でなくなったため、久喜市の実家で暮らしていた。 幼かった敦はこの伯母に育てられた。敦は自身が亡くなる1942年(昭和17年)にも「河野の伯母」と呼んで慕い、「本当に良い伯母様だったなあ」と会いたがっていた。 伯父・端(中島斗南) 1859年2月28日(安政6年1月26日)生 - 1930年(昭和5年)6月13日没 幼名は端蔵(たんぞう)。慶太郎ときくの長男(慶太郎にとっては次男)。生涯独身。俊才ながらも奇人的な人となりは敦の私記作品『斗南先生』で描かれている。外交問題を研究するため中国大陸にもしばしば単独で渡り、羅振玉や汪康年らと意見交換などしていた。 『支那分割の運命』という「我に後来白人を東亜より駆逐せんの絶大理想あり」「我は進んで支那民族分割の運命を挽回せんのみ。四万々生霊を水火塗炭の中に救はんのみ」と述べている著書を1912年10月に政教社から刊行。死後は、遺稿詩文集『斗南存稾』が弟伯父・中島竦の編纂で文求堂書店から1932年10月1日に刊行された。漢詩文のほか、30歳のときには小説も書き、「肌香夢史(はだかむし)」という筆名で『野路乃村雨』という作品を出版したこともあった。 成人した男兄弟の中、斗南だけが久喜市の実家に残っていたため、幼い頃に預けられた敦の面倒を見て、敦のことを甥の中で一番気に入り信頼・期待していた。敦は多くの親戚からこの斗南伯父の気質に似ていると言われ、特に年上の従姉妹から「やかまの伯父」(斗南はやかましいため、甥姪たちからそう呼ばれていた)のようにならなければいいが、と会うたびに言われていた。 伯父・竦(中島玉振) 1861年6月29日(文久元年5月22日)生 - 1940年(昭和15年)6月11日没 幼名は辣之助(しょうのすけ)。慶太郎ときくの次男(慶太郎にとっては三男)。生涯独身。甥姪たちから「お髭の伯父」と呼ばれ、中島斗南とは違った趣を持つ人物として『斗南先生』の中で少し描かれるが、「(2人の伯父は)共に童貞にだけしか見られない浄らかさを持って」と書かれている。 髪を牛若丸のように結い、二尺(60センチ)近くの長い白髯をたくわえていた物静かな人物。敦はこの玉振伯父と親しく、将棋を指すために伯父の家に数日間滞在することもあったという。敦の次男・格(のぼる)の名付け親も竦であった。 伯父・翊(関翊) 1866年1月21日(慶応元年12月5日)生 - 1953年(昭和28年)8月18日没 「たすく」と読む。幼名は若之助。慶太郎ときくの三男(慶太郎にとっては四男)。師範学校を卒業後し小学校教師を経て、プロテスタント派の牧師となった。旧幕臣・関巳吉の娘(次女)と結婚し養子縁組で「関」姓となり二男(正献、正通)を儲ける。関翊は『斗南先生』の中で「渋谷の伯父」として出てくる。 関翊の一家は渋谷の岡本武尚邸(岡本貫一邸内の分家)に一緒に住んでいた。岡本武尚の母・育子(岡本貫一の妻)が元々関家の2人姉妹の長女(関巳吉の長女)だったため親戚関係があった。 伯父・開蔵(山本開蔵) 1868年3月8日(明治元年2月15日)生 - 1958年(昭和33年)4月18日没 慶太郎ときくの四男(慶太郎にとっては五男)。3歳のときに久喜市の山本家の養子となった。帝国大学工科大学を卒業後海軍省に入り、のちに技術中将となった。結婚し二男五女(操子、愛子、順子、洸、淑子、泱、紀子)を儲ける。 開蔵は『斗南先生』の中で「洗足の伯父」として登場し、「圭吉」として名前が出てくる同学年の従兄は開蔵の次男・決(ひろし)のことだという。開蔵は皮膚癌で亡くなったとされる。 伯母・志津 1871年5月28日(明治4年4月10日)生 - 1958年(昭和33年)8月20日没 慶太郎ときくの次女。浦和高等女学校の国語教師として勤務した。1度結婚したが1日だけで帰ってきて以来独身。1925年(大正14年)ごろは京城女学校に勤務。 敦の1人目の継母・カツが亡くなり、赤ん坊の澄子の世話のため京城に来て、その後淑明高女に勤務したが、そこで志津に対する排斥運動が起ったという。敦は京城中学時代、父の大連転勤の際、京城に住む志津の家(長屋)に寄寓したことがある。 敦は志津を「浦和の伯母」と呼び、志津に借りているお金を毎月50円ずつ返済していることが1941年(昭和16年)の父への書簡に記されている。これは、2人目の継母コウが浪費し呉服店などの支払いを滞らせていたため、敦が工面し伯母から借りたものだったという。 叔父・比多吉 1876年(明治9年)11月23日生 - 1948年(昭和23年)12月4日没 「ひたき」と読む。慶太郎ときくの六男(慶太郎にとっては七男)。結婚し二男五女(褧子、美恵子、美奈子、元夫、吉夫、都佐子、文子)を儲ける。東京外国語学校支那語科を卒業し、早稲田大学の講師となったあと清国保定府の警務学堂に招聘され中国大陸に渡った。 日露戦争では特別任務班の一員として奉天北方虎石台附近の鉄道爆破に参加し満州総司令部付に出世した。のち陸軍で中国語の翻訳・通訳を担当し、満州政府では中枢官僚として勤務。皇帝溥儀の側近となり溥儀の日本訪問にも同行した。1932年(昭和7年)ごろには旅順にいた。 敦は、比多吉の長女で2歳年下の褧子と親しく、はっきり結婚の約束はしていなかったが互いに愛情を持っていた。比多吉の縁故で敦も教員退職後の就職先として満州に行く話もあったが、寒地での勤務に耐えられそうにないと敦は断っている。比多吉は晩年に結核になったという。 叔母・うら 1880年(明治13年)11月8日生 - 1981年(昭和56年)3月24日没 慶太郎ときくの三女。久喜近在の東村(現・加須市)の地主の塚本氏と結婚し一男(盛彦)を儲ける。夫は息子が3歳の時に死亡。姑や小姑と不仲で月に一度は息子を連れ久喜市に帰っていた。亡夫の弟との再婚を勧められ断髪して拒否したという。 敦より6歳年上の従兄の盛彦は、敦が父(田人)のいる朝鮮に渡る際に1人では不安とのことで、夏休みを利用し敦に付き添った。敦が幼いころは久喜市の家でよく遊び、田人と敦と一緒に上野動物園に行った時には、敦の実母・チヨとその母に会ったことがある。盛彦がカメラ好きだったことから、チヨは自身の死期が迫ってきた時期に、敦の写真を送ってくれと盛彦に依頼した。盛彦は1931年(昭和6年)から30年間ほどNHKに勤務した。 妻・タカ 1909年(明治42年)11月11日生 - 1984年(昭和59年)10月2日没 旧姓は橋本。郷里は愛知県碧海郡依佐美村字高棚新池。農業の父・橋本辰次郎の三女。叔母に育てられ、高等小学校を卒業後は、従兄の和田義次(叔母の息子)を頼って15歳で上京。麻雀荘で店員をしていた22歳のときに、同い年で東京帝国大学在学中の敦と出会い、その1週間後に敦にいきなり抱かれ結婚を申し込まれた。 しかし敦は当時タカの同僚・パン子とも交際し、タカも従兄・義次との縁談があった。敦は義次宛てに、タカを与えてほしいと長文の手紙を出し懇願するが、タカの叔母(義次の母親)はこの手紙を持って久喜の中島本家に押しかけて300円を受け取った。敦の父・田人や中島家も学生結婚に反対した。そのためタカはいったん実家の愛知県に戻って敦の卒業を待つが、その間タカは敦の子を身ごもり、その地で長男・桓を出産。 その後タカは子連れで上京するが、横浜高女の教員になっていた敦は「東京へくること。勿論よい。が横浜はよそう」と同居を拒否。タカは桓をかかえ、杉並堀之内、自由ヶ丘、緑ヶ丘と東京の下宿を転々とする生活を送り、上京してから1年半後、ようやく敦は横浜市中区本郷町で妻子と同居を始めた。敦がタカを拒否した理由は定かではないが、森田誠吾は敦にほかの女性(従妹)との付き合いがあったことをあげ。タカの回想文の中にも敦が従妹や女性徒などに好意を持っていたことや、晩年に中島が彼女らの手紙を整理して焼いたことが書かれている。 タカは敦との間に、桓(1933年4月28日生 - )、正子(1937年1月11日生 - 同年1月13日没)、格(1940年1月31日生 - )の二男一女を儲けるが正子は夭折。長男・桓の命名は「勇ましく、強いこと」の意味を込め、「桓武天皇」の「桓」の字から敦自身が付けた。次男・格の命名は伯父の玉振が付けた。 タカも敦の死後に回想文「思い出すことなど」を書いている。敦の友人らによると、タカは世話女房の母性的な女性だったという。長男・桓は、釘本久春の斡旋で1957年(昭和32年)に日本育英会に就職し、その後に名古屋支所奨学課長となった。
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