主要な家族・親族とは? わかりやすく解説

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主要な家族・親族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 04:59 UTC 版)

中島敦」の記事における「主要な家族・親族」の解説

以下、その他の家族・親族含め主要な人物列記する基本情報生年没年月日出典は。 祖父中島慶太郎(中島撫山1829年5月14日文政12年4月12日)生 - 1911年明治44年6月24日中島家第12代当主亀田鵬斎門下の五俊秀称され埼玉県南埼玉郡久喜町開いた漢学塾幸魂教舎」の門弟は千数百人にのぼる。慶太郎の父は、中島清右衛門(良雅)。異母弟には画家中島陰がいる。 先妻・紀玖との間に、長男・靖(号は綽軒)を儲け、紀玖が安政の大地震死去した後は、後妻・きく(よし)との間に、六男四女(ふみ、端、辣之助、美都、若之助、開志津田人、比多吉、うら)を儲けた美都早世)。撫山の墓は神式埼玉県久喜市光明寺にある。 後妻・きく(敦の祖母)は、須坂士族亀田氏の出自。「よし」という名前だったが、結婚後「きく」と呼ばれた。撫山が亡くなった後は、このきくが幼い孫・敦の訓育担った。この家には、先妻・紀玖の長男・靖(綽軒)の娘たち(敦の従姉ら)も住んでいた。 父・中島田1874年明治7年5月5日生 - 1945年昭和20年3月9日慶太郎ときくの五男(慶太郎にとっては六男)。 父や兄(端や竦)のもと「幸魂教舎」で学び1902年明治35年5月検定試験漢文科)に合格し漢文教員免許取得した後、兄たちの関わった「明倫館」をはじめ複数学校教員務めた田人自身息子の敦に漢文教えてはいなかった。 チヨ離婚した後は、実科女学校裁縫教師をしていた紺家カツ再婚カツ死去後は、大阪出身幼稚園教師をしていた飯コウ再婚したカツはしまり屋で、コウ浪費家だったという。敦はコウのことを物質崇拝の「縁なき衆生」と軽蔑していた。 敦の多感なころは父子折り合いよくなかったとされ、2人目の継母コウがやって来た当初、父に反抗的な態度をとってひどく殴られたことなどが習作草稿の「プールの傍で」で描かれている。当時の敦の同級生小山政憲も「中島君の家庭的な不幸は誰でもよく知っていた」と語っている。 しかしながらコウ死去後、敦の病没直前には漢籍について家で話すなど関係が改善していたという。田人は敦に他人行儀な接し方をしていたが、敦が自慢の種で他の者にはいつも「敦は、敦は」と子煩悩な面を見せていた。敦の死後はすっかり意気消沈し吾子失った悲しみの歌残している。 母・チヨ 1885年明治18年11月23日生 - 1921年大正10年7月3日旧姓名は岡崎千代子実家東京市四谷区箪笥町で、岡崎勝太郎、きの夫妻長女として生まれた岡崎家は、元は小さな旗本だったという。チヨは元小学校教員大変な才女で、敦の優秀さ中島家系のみではないとも言われている。敦を背中背負ったまま義父・撫山の漢籍素読聞いていたという話も残っている。 田人との離婚の原因家事不得手だったからとも、チヨ不貞あったからとも言われる離婚後復縁望み田人許していたが、敦の伯母志津伯父斗南反対で叶わなかった。のちに桜庭進平と再婚し幸雄を儲ける。 敦12歳の年、敦の写真抱いて病死したという。その写真は、敦の従兄盛彦叔母・うらの息子)が撮ったもので、チヨ病気になった時に頼まれ送ったという。母・きのの家(四谷区左門町)で亡くなったチヨの墓は港区高徳寺にある。 敦の6歳年下異父弟にあたる桜庭幸雄は詩人で、NHK定年退職後若いころから書き溜めていた作品纏めた詩集3冊や俳句集を出版した。幸雄の次男の顔は敦に似ているという。 異母妹澄子 1923年大正12年3月11日生 - 2021年令和3年12月15日没 父・田人継母カツ長女カツ澄子産んで間もなく肺炎亡くなったため、当時京城にいた敦の従姉・婉(綽軒の長女)がしばらく世話をし、その後伯母志津来て澄子歩き始めるまで世話をしたという。 共立女子専門学校卒業し長く高校家庭科先生として務めた折原氏と結婚し、一(いち)を儲ける。敦の甥に当たる、この折原一小説家である。澄子は兄・敦の死後に、回想文として「兄と私」(1976年筑摩書房版中島敦全集 第一巻月報1)や、「兄のこと」(1989年田鍋幸信著『中島敦光と影』)、「兄敦の思い出」(2009年久喜中島敦の会中島敦と私――中島敦生誕100年記念』)を記している。 伯父・靖(中島綽軒) 1852年10月27日嘉永5年9月14日)生 - 1906年明治39年6月19日慶太郎と紀玖の長男中島家第13代当主結婚し一男五女(婉、賾臣、那都、春中、緒留、彌生)を儲ける。 敦は浜松京城にいたころ、近所にいた綽軒の長女・婉(敦の従姉)の一家交流し、婉の二女長根翠(敦の3歳下)や、翠の友人藤井とし子親しくしていた。敦が京城龍山地区青葉町長屋伯母志津住んでいたころは、婉一家も同じ長屋にいた。藤井とし子結婚後にとし子となり、1979年昭和54年)に出版した随筆集あかしや』の中で「中島敦さんの事」という随想文を掲載している。 綽軒の孫に当たる中島家第15代当主の甲臣(さきおみ)(14当主の賾臣(もとおみ)の息子)は北海道大学卒業し北大数学教授務めた定年退職後北海道武蔵女子短期大学移り1988年昭和63年)に「中島敦覚え書――行為思索」という論文発表した伯母・ふみ 1857年6月19日安政4年5月28日)生 - 1943年昭和18年2月18日慶太郎ときくの長女。「婦美」とも書く。医師河野氏結婚し一男をもうける。夫と死別し九州大学医学部進学した長男敗血症なくなったため、久喜市実家暮らしていた。 幼かった敦はこの伯母育てられた。敦は自身亡くなる1942年昭和17年)にも「河野伯母」と呼んで慕い、「本当に良い伯母様だったなあ」と会いたがっていた。 伯父・端(中島斗南1859年2月28日安政6年1月26日)生 - 1930年昭和5年6月13日幼名は端たんぞう)。慶太郎ときくの長男慶太郎にとっては次男)。生涯独身俊才ながらも奇人的な人となりは敦の私記作品斗南先生』で描かれている。外交問題研究するため中国大陸にもしばしば単独渡り羅振玉や汪康年らと意見交換などしていた。 『支那分割の運命』という「我に後来白人東亜より駆逐せんの絶大理想あり」「我は進んで支那民族分割運命挽回せんのみ。四万生霊水火塗炭中に救はんのみ」と述べている著書1912年10月政教社から刊行死後は、遺稿詩文集『斗南存稾』が弟伯父中島竦編纂で文求堂書店から1932年10月1日刊行された。漢詩文のほか、30歳ときには小説書き、「肌香夢史(はだかむし)」という筆名で『野路村雨』という作品出版したこともあった。 成人した兄弟の中、斗南だけが久喜市実家残っていたため、幼い頃預けられた敦の面倒を見て、敦のことを甥の中で一番気に入り信頼期待していた。敦は多く親戚からこの斗南伯父気質似ていると言われ、特に年上従姉妹から「やかまの伯父」(斗南やかましいため、甥姪たちからそう呼ばれていた)のようにならなければいいが、と会うたびに言われていた。 伯父・竦(中島玉振1861年6月29日文久元年5月22日)生 - 1940年昭和15年6月11日幼名は辣之助(しょうのすけ)。慶太郎ときくの次男慶太郎にとっては三男)。生涯独身甥姪たちからお髭伯父」と呼ばれ中島斗南とは違った趣を持つ人物として斗南先生』の中で少し描かれるが、「(2人伯父は)共に童貞だけしか見られない浄らかさを持ってと書かれている。 髪を牛若丸のように結い、二尺(60センチ近く長い白髯たくわえていた物静かな人物。敦はこの玉振伯父親しく将棋を指すために伯父の家に数日間滞在することもあったという。敦の次男・格(のぼる)の名付け親も竦であった伯父・翊(関翊) 1866年1月21日慶応元年12月5日)生 - 1953年昭和28年8月18日没 「たすく」と読む。幼名は若之助。慶太郎ときくの三男慶太郎にとっては四男)。師範学校卒業後し小学校教師経てプロテスタント派牧師となった旧幕臣・関巳吉の娘(次女)と結婚し養子縁組で「関」姓となり二男(正献、正通)を儲ける。関翊は『斗南先生』の中で「渋谷伯父」として出てくる。 関翊の一家渋谷岡本武尚邸(岡本貫一邸内分家)に一緒に住んでいた。岡本武尚の母・育子岡本貫一の妻)が元々関家2人姉妹長女(関巳吉長女)だったため親戚関係があった。 伯父・開山本1868年3月8日明治元年2月15日)生 - 1958年昭和33年4月18日慶太郎ときくの四男(慶太郎にとっては五男)。3歳のときに久喜市山本家養子となった帝国大学工科大学卒業後海軍省に入り、のちに技術中将となった結婚し二男五女(操子、愛子順子、洸、淑子、泱、紀子)を儲ける。 開は『斗南先生』の中で「洗足伯父」として登場し、「圭吉」として名前が出てくる同学年従兄は開次男・決(ひろし)のことだという。開皮膚癌亡くなったとされる伯母志津 1871年5月28日明治4年4月10日)生 - 1958年昭和33年8月20日慶太郎ときくの次女浦和高等女学校国語教師として勤務した1度結婚した1日だけで帰ってきて以来独身1925年大正14年)ごろは京城女学校勤務。 敦の1人目の継母カツ亡くなり赤ん坊澄子世話のため京城来てその後淑明高女勤務したが、そこで志津対す排斥運動起ったという。敦は京城中学時代、父の大連転勤の際、京城に住む志津の家(長屋)に寄寓しことがある。 敦は志津を「浦和伯母」と呼び志津借りているお金毎月50円ずつ返済していることが1941年昭和16年)の父への書簡記されている。これは、2人目の継母コウ浪費し呉服店などの支払い滞らせていたため、敦が工面し伯母から借りたのだったという。 叔父・比多吉 1876年明治9年11月23日生 - 1948年昭和23年12月4日没 「ひたき」と読む。慶太郎ときくの六男(慶太郎にとっては七男)。結婚し二男五女(褧子、美恵子美奈子元夫、吉夫、都佐子、文子)を儲ける。東京外国語学校支那語科卒業し早稲田大学講師となったあと清国保定府警務学堂招聘され中国大陸渡った日露戦争では特別任務班の一員として奉天北方虎石台附近の鉄道爆破参加し満州総司令部付に出世した。のち陸軍中国語翻訳・通訳担当し満州政府では中枢官僚として勤務皇帝溥儀側近となり溥儀日本訪問にも同行した1932年昭和7年)ごろには旅順にいた。 敦は、比多吉長女2歳年下の褧子と親しく、はっきり結婚約束はしていなかったが互いに愛情持っていた。比多吉縁故で敦も教員退職後の就職先として満州に行く話もあったが、寒地での勤務に耐えられそうにないと敦は断っている。比多吉晩年結核になったという。 叔母・うら 1880年明治13年11月8日生 - 1981年昭和56年3月24日慶太郎ときくの三女久喜近在東村(現・加須市)の地主塚本氏と結婚し一男盛彦)を儲ける。夫は息子3歳時に死亡。姑や小姑不仲で月に一度息子連れ久喜市帰っていた。亡夫の弟との再婚勧められ断髪して拒否したという。 敦より6歳年上従兄盛彦は、敦が父(田人)のいる朝鮮に渡る際に1人では不安とのことで、夏休み利用し敦に付き添った。敦が幼いころ久喜市の家でよく遊び田人と敦と一緒に上野動物園行った時には、敦の実母チヨとその母に会ったことがある盛彦カメラ好きだったことから、チヨ自身死期迫ってきた時期に、敦の写真送ってくれと盛彦依頼した盛彦1931年昭和6年)から30年間ほどNHK勤務した。 妻・タカ 1909年明治42年11月11日生 - 1984年昭和59年10月2日旧姓橋本郷里愛知県碧海郡依佐美村字高新池農業の父・橋本辰次郎三女叔母育てられ高等小学校卒業後は、従兄和田義次(叔母息子)を頼って15歳上京麻雀荘で店員をしていた22歳のときに、同い年東京帝国大学在学中の敦と出会いその1週間後に敦にいきなり抱かれ結婚申し込まれた。 しかし敦は当時タカ同僚パン子とも交際しタカ従兄・義次との縁談があった。敦は義次宛てに、タカ与えてほしいと長文の手紙を出し懇願するが、タカ叔母(義次の母親)はこの手紙を持って久喜中島本家押しかけ300円を受け取った。敦の父・田人中島家学生結婚反対した。そのためタカはいったん実家愛知県戻って敦の卒業を待つが、その間タカはの子を身ごもり、その地で長男・桓を出産その後タカは子連れ上京するが、横浜高女教員になっていた敦は「東京へくること。勿論よい。が横浜はよそう」と同居拒否タカは桓をかかえ、杉並堀之内自由ヶ丘緑ヶ丘東京下宿転々とする生活を送り上京してから1年半後、ようやく敦は横浜市中区本郷町妻子同居始めた。敦がタカ拒否した理由定かではないが、森田誠吾は敦にほかの女性(従妹)との付き合いがあったことをあげ。タカ回想文の中にも敦が従妹女性徒などに好意持っていたことや、晩年中島彼女らの手紙を整理して焼いたことが書かれているタカは敦との間に、桓(1933年4月28日生 - )、正子1937年1月11日生 - 同年1月13日没)、格(1940年1月31日生 - )の二男一女儲けるが正子夭折長男・桓の命名は「勇ましく、強いこと」の意味込め、「桓武天皇」の「桓」の字から敦自身付けた次男・格の命名伯父の玉振が付けたタカも敦の死後回想文「思い出すことなど」を書いている。敦の友人らによると、タカは世話女房母性的な女性だったという。長男・桓は、釘本久春斡旋1957年昭和32年)に日本育英会就職しその後名古屋支所奨学課長となった

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