孝謙天皇 孝謙天皇の概要

孝謙天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 04:15 UTC 版)

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孝謙天皇
称徳天皇

在位期間
孝謙天皇749年8月19日 - 758年9月7日
天平勝宝元年7月2日 - 天平宝字2年8月1日
称徳天皇764年11月6日 - 770年8月28日
天平宝字8年10月9日 - 神護景雲4年8月4日
元号 孝謙天皇
天平勝宝
天平宝字
称徳天皇
天平宝字
天平神護
神護景雲
時代 奈良時代
先代 聖武天皇(第45代)
淳仁天皇(第47代)
次代 淳仁天皇(第47代)
光仁天皇(第49代)

誕生 718年
崩御 770年8月28日
平城宮西宮寝殿
陵所 高野陵
漢風諡号 孝謙天皇(第46代)
称徳天皇(第48代)
和風諡号 高野姫天皇
阿倍
別称 宝字称徳孝謙皇帝
高野天皇
倭根子天皇
父親 聖武天皇
母親 光明皇后
皇配 なし
子女 なし
皇居 孝謙:平城宮
称徳:平城宮

女帝。孝謙天皇が重祚して称徳天皇。
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父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。諱は阿倍で、これは阿倍氏に養育されたためであった[1]

史上6人目の女性天皇で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで850余年、女性天皇が立てられることはなかった。

略歴

皇太子

聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず(基王は早世)、阿倍内親王のみであった。聖武天皇と県犬養広刀自との間には安積親王が生まれたが、後ろ盾を持たなかったため即位は望み薄であり、天平10年1月13日738年2月6日)に阿倍内親王が立太子し、史上唯一の女性皇太子となった。天平15年(743年)5月5日には元正上皇の御前で五節舞を披露している。

天平17年(744年)に安積親王が没し、聖武天皇の皇子はいなくなった。直後に聖武天皇が倒れて重態に陥った際、橘奈良麻呂は「皇嗣(皇位継承者)が立っていない」と黄文王を擁立する動きを見せている。当時の女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、阿倍内親王が即位してもその次の皇位継承の見通しが立たず、彼女に代わる天皇を求める動きが彼女の崩御後まで続くことになった。

孝謙天皇としての治世

天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位した。治世の前期は皇太后(光明皇后)が後見し、皇后宮職を改組した紫微中台の長官で、皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大した。

天平勝宝8歳(756年)5月2日に父の聖武上皇が崩御し、新田部親王の子である道祖王を皇太子とする遺詔を残した。しかし翌天平勝宝9歳(757年)3月、孝謙天皇は皇太子にふさわしくない行動があるとして道祖王を廃し、自身の意向として舎人親王の子大炊王を新たな皇太子とした。この更迭劇には、孝謙天皇と仲麻呂の意向が働いたものと考えられている[2]

強まる仲麻呂の権勢に、あせった橘奈良麻呂や大伴古麻呂らは、孝謙天皇を廃して新帝を擁立するクーデターを計画した。しかし事前に察知した藤原仲麻呂により、関係者は同年5月に粛清された(橘奈良麻呂の乱)。以降仲麻呂の権勢はさらに強まった。

太上天皇時代

天平宝字2年(758年)8月1日、孝謙天皇は病気の光明皇太后に仕えることを理由に[3]大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となる。この日、孝謙上皇には「宝字称徳孝謙皇帝」、光明皇太后には「天平応真仁正皇太后」の尊号が贈られ、9日には亡き先帝(聖武天皇)に「勝宝感神聖武皇帝」の尊号が贈られている。また、尊称として孝謙上皇には「上臺」、光明皇太后には「中臺」が用いられているが、「上臺」は中国南朝においては皇帝およびその機関に対する尊称であった[4]。「皇帝」や「上臺」の称号は政権担当者である藤原仲麻呂の単なる唐風趣味ではなく、新天皇の正当性の保証者としての役割を大炊王および仲麻呂から期待されていたとみられている[5]。仲麻呂は大炊王から「藤原恵美朝臣」の姓と「押勝」の名が与えられ、藤原恵美押勝と称するようになり、貨幣鋳造権も与えられている。仲麻呂は官庁を唐風に改名する(官職の唐風改称)など、さらに権勢を振るうようになった。

天平宝字3年(759年)、光明皇太后が淳仁天皇の父・舎人親王に尊号を贈ることを提案した。淳仁天皇は孝謙上皇に相談すると、上皇は皇太后に対して辞退する奏上を行うよう助言をしている[6]。結局、皇太后が再三説得し、舎人親王に「崇道尽敬皇帝」の尊号を贈ることになったが、このことは孝謙上皇の影響力の大きさを明示したものとなった[7]。天平宝字4年(760年)1月4日、仲麻呂は太師(太政大臣)に任命されているが、その際も孝謙上皇が淳仁天皇や百官が同席する場で突然口頭でその旨を宣言し、淳仁天皇が追認の形で正式な任命手続を取った。孝謙上皇は律令上は大臣任命の権限はないものの淳仁天皇が直ちにそれを認めたことで、孝謙上皇の影響力の大きさを明示するとともに仲麻呂にとっても光明皇太后亡き後も上皇と天皇からの二重の信任を受けていることを明示する意味合いを持っていた[8]

天平宝字4年(760年)7月16日に光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇と仲麻呂・淳仁天皇の関係は微妙なものとなった。同年8月に孝謙上皇・淳仁天皇らは小治田宮に移り、天平宝字5年(761年)には保良宮に移った。ここで病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになった。天平宝字6年(762年5月23日6月23日)に淳仁天皇は平城宮に戻ったが、孝謙は平城京に入らず法華寺に住居を定めた。ここに「高野天皇、帝と隙あり」と続日本紀が記す孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の不和が表面化した。6月3日に孝謙上皇は五位以上の官人を呼び出し、淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明し、さらに国家の大事である政務を自分が執ると宣言した[9]。ただし、この宣言がどこまで実効性があったかは研究者の間でも議論があり、実効性が発揮できなかったためにその後も混乱が続いたとする見方もある[10]。不和の原因には道鏡を除くよう淳仁天皇と仲麻呂が働きかけた事や、皇統の正嫡意識を持つ孝謙上皇が淳仁天皇に不満を持ったことなどがあげられている[11][12]。また、天皇の軍事指揮権の象徴であるが光明皇太后の崩御後、直接淳仁天皇に引き渡された[注釈 1]ことは、淳仁天皇に皇統の正嫡意識を持たせ、反対に孝謙上皇の不満を強めて皇統嫡流を争い始めたとする見方もある[13]

天平宝字7年(763年)から天平宝字8年(764年)には道鏡や吉備真備といった孝謙派が要職に就く一方で、仲麻呂の子達が軍事的要職に就くなど、孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の勢力争いが水面下で続いた[14]

藤原仲麻呂の乱

天平宝字8年(764年)9月11日、藤原仲麻呂が軍事準備を始めた[注釈 2]事を察知した孝謙上皇は、山村王を派遣して淳仁天皇の元から軍事指揮権の象徴である鈴印を回収させた。これを奪還しようとした仲麻呂側との間で戦闘が起きたが、結局鈴印は孝謙上皇の元に渡り、仲麻呂は朝敵となった。仲麻呂は太政官印を奪取して、近江国に逃走したが、9月13日に殺害された。

仲麻呂敗死の知らせが届いた9月14日には、左遷されていた藤原豊成を右大臣とし、9月20日には道鏡を大臣禅師とした。さらに9月22日には、仲麻呂によって変えられた官庁名を旧に復し、10月9日には淳仁天皇を廃して大炊親王とし、淡路公に封じて流刑とした[15]

重祚:称徳天皇としての治世

淳仁天皇の廃位によって孝謙上皇は事実上、皇位に復帰した。後世では孝謙上皇が重祚したとして、これ以降は称徳天皇と呼ばれる。日本史上唯一の、出家のままで即位した天皇である[16]。以降、称徳天皇と道鏡による政権運営が6年間にわたって続く事になるが、皇太子はふさわしい人物が現れるまで決められない事とした。

天平神護元年(765年)に飢饉和気王の謀叛事件が起きるなど、乱後の政情は不安定であった。同年10月に称徳天皇は道鏡の故郷である河内弓削寺に行幸した。この弓削行幸中に道鏡を太政大臣禅師に任じ、本来臣下には行われない群臣拝賀を道鏡に対して行わせた。またこの際の行宮を拡張し、由義宮の建設を開始している。一方でほぼ同じ時期に淡路で廃帝・淳仁が変死を遂げている。11月には天皇即位とともに行われる大嘗会を行ったが、本来参加しない僧侶が出席するという異例のものであった[17]。ただし即位式は行われていない[18]。またこの年には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じている。

天平神護2年(766年)10月には海龍王寺仏舎利が出現したとして、道鏡を法王とした。道鏡の下には法臣・法参議という僧侶の大臣が設置され、弓削御浄浄人が中納言となるなど道鏡の勢力が拡充された。一方で太政官の首席は左大臣・藤原永手であったが、吉備真備を右大臣に抜擢するなど異例ずくめであった。こうして称徳天皇=道鏡の二頭体制が確立された[19]

称徳天皇は次々と大寺に行幸し、西大寺の拡張や西隆寺の造営、百万塔の製作を行うなど仏教重視の政策を推し進めた。一方で神社に対する保護政策も厚かったが、伊勢神宮宇佐八幡宮内に神宮寺を建立するなど神仏習合がさらに進んだ。また神社の位階である神階制度も開始されている。一方で『続日本紀』では、政治と刑罰が厳しくささいなことで極刑が行われ、冤罪を産んだと評されている[18]神護景雲3年(769年)5月には称徳天皇の異母妹・不破内親王氷上志計志麻呂が天皇を呪詛したとして、名を改めた上で流刑にされている。同じく称徳天皇の異母妹・井上内親王を妻としていた中納言・白壁王(後の光仁天皇)は天皇の嫉視を警戒し、酒に溺れた振りをして難を逃れようとしていた。ただし、天皇と井上内親王との関係は良好だったと推測され、淳仁天皇期に行われた保良宮設置の際に稲十万束(淳仁天皇の兄弟である船親王池田親王と同額)を与えられ(『続日本紀』天平宝字5年10月壬戌条)、称徳天皇即位後も新羅船との交易代金として真綿が貴族たちに支給された際に夫の白壁王が既に大納言に対する相当額として一万屯が与えられているにもかかわらず、後日内親王個人に対しても同量が与えられる(『続日本紀』神護景雲年10月甲子・庚午条)など、破格の厚遇を受けている(これは天皇と対立関係であった姉妹の不破内親王にそうした待遇がなかったことからも特殊性がうかがえる)[20]

神護景雲3年(769年)、大宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣を報じたとされた。これを確かめるべく、和気清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に送ったが、清麻呂はこの託宣は虚偽であると復命した。これに怒った称徳天皇と天皇の地位を狙っていた道鏡は清麻呂を改名した上で因幡員外介として左遷し、さらに大隅国へ配流した(宇佐八幡宮神託事件[21]。10月から11月にかけては造営した由義宮に行幸し、同地を西京とする旨を宣した。神護景雲4年(770年)2月、称徳天皇は再び由義宮に行幸した。

崩御と後継

行幸翌月の3月なかばに発病し、病臥する事になる。このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。道鏡の権力はたちまち衰え、軍事指揮権は藤原永手や吉備真備ら太政官に奪われた[22]8月4日、称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御した。宝算53。

称徳天皇は生涯独身であり、子をなすこともなかった。『続日本紀』宝亀元年(770年)八月癸巳条によると、崩御にあたって藤原永手や藤原宿奈麻呂・吉備真備ら群臣が集まって評議し、白壁王を後継として指名する「遺宣」が発せられたという。白壁王は光仁天皇として即位する。

一方、『日本紀略』『扶桑略記』に引用された「藤原百川伝」によると、崩御後間もなく群臣が集まって評議し、吉備真備が文室大市もしくは文室浄三を推し、永手や宿奈麻呂・藤原百川は白壁王を推した。真備が自案に固執すると、永手らは白壁王を指名する称徳天皇の遺詔を読み上げた。このため白壁王が即位して光仁天皇となるが、この遺詔は偽造されたものであったという[23]

河内祥輔は『古代政治史における天皇制の論理』において、「藤原百川伝」の記述が『水鏡』に継承され、『大日本史』にも採用されたことから、吉備真備が出し抜かれた、藤原百川が暗躍したとされる経緯が一般的になったと指摘する。河内は百川が光仁擁立時は政治に参画する立場に無く、百川が暗躍したとする所説は桓武天皇の立太子の事情が誤って語られたものであると指摘。現在ではこの説が広く支持されている。

上野正裕は称徳天皇から吉備由利を介して吉備真備に後継者に関する遺詔が示された可能性があり、それが文室大市もしくは文室浄三であったものの、他の廷臣がこれを拒絶して白壁王を擁立したとする説もある[24]

なお、道鏡は失脚して下野国薬師寺別当に左遷され、弓削浄人も土佐に流された。墾田私有も宝亀3年(772年)に再開されている。

強制改名

18世紀に描かれた女帝の肖像

孝謙天皇には、自らに反抗したものに、卑しい名前をつけることをしばしばおこなった。

橘奈良麻呂の乱では

  • 道祖王 - 麻度比(まどひ=惑い者の意)
  • 黄文王 - 久奈多夫禮(くなたぶれ=愚か者の意)
  • 賀茂角足 - 乃呂志(のろし=鈍いの意か)

不破内親王の呪詛事件(これは誣告であった)では

  • 不破内親王 - 厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ=台所の下女の意か)
  • 氷上川継 - 志計志麻呂(しけし=穢れる、荒れるなどの意。林陸朗の説)

宇佐八幡宮神託事件では

  • 和気清麻呂 - 別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)
  • 和気広虫 - 別部狭虫(わけべのさむし)または、別部広虫売(わけべのひろむしめ)

など。


注釈

  1. ^ 木本好信の指摘によれば、橘奈良麻呂の乱の時に奈良麻呂らは光明皇太后に鈴印の行使を求めようと計画しており、恵美押勝の乱の時には孝謙上皇が淳仁天皇から鈴印を奪っていることから、聖武上皇の崩御後は鈴印は光明皇太后が保持して孝謙・淳仁両天皇には引き渡されず、皇太后崩御後は直接淳仁天皇に引き渡されて天皇の居所である中宮院に保管されていたとみられる。つまり、孝謙天皇は在位中一度も鈴印を保持することができなかったことになる。
  2. ^ ただし、孝謙上皇側も授刀衛の把握など、自己の軍事準備を進めており、仲麻呂側も具体的な反乱計画を持っていたというよりは、上皇側からの攻撃を警戒して準備を進めたとする見方もある(木本好信「私の仲麻呂像 -反逆者像の払拭と政治観-」『奈良平安時代史の諸問題』56 - 58頁、和泉書房、2021年)。

出典

  1. ^ 告井幸男「名代について」『史窓』第071巻、京都女子大学史学会、2014年2月、1-21頁、ISSN 0386-8931 
  2. ^ 渡辺、287-290p
  3. ^ 樋口・佐藤、146p
  4. ^ 中野渡俊治「『続日本紀』天平宝字二年八月庚子朔条「上臺」考」(初出:『歴史』第110輯(2008年)/所収:中野渡『古代太上天皇の研究』(思文閣出版、2017年) ISBN 978-4-7842-1887-5
  5. ^ 中野渡俊治「孝謙太上天皇と「皇帝」尊号」(初出:『日本歴史』649号(2002年)/所収:中野渡『古代太上天皇の研究』(思文閣出版、2017年) ISBN 978-4-7842-1887-5
  6. ^ 渡辺、298-299p
  7. ^ 樋口・佐藤、147p
  8. ^ 鈴木琢郎「奈良時代の大臣任官と宣命」(初出:『日本歴史』675号(2004年)/所収:鈴木『日本古代の大臣制』(塙書房、2018年) ISBN 978-4-8273-1298-0 2018年、217-220p
  9. ^ 渡辺、313-314p
  10. ^ 木本好信「私の仲麻呂像 -反逆者像の払拭と政治観-」『奈良平安時代史の諸問題』59頁、和泉書房、2021年
  11. ^ 渡辺、314p
  12. ^ 樋口・佐藤、148p
  13. ^ 木本好信「私の仲麻呂像 -反逆者像の払拭と政治観-」『奈良平安時代史の諸問題』52 - 56・61頁、和泉書房、2021年
  14. ^ 渡辺、316-317p
  15. ^ 渡辺、323-324p
  16. ^ 岡野友彦 『院政とは何だったか』 PHP新書 kindle版 1709/2316 (2013年)
  17. ^ 渡辺、326p
  18. ^ a b 渡辺、324p
  19. ^ 渡辺、327p
  20. ^ 上野正裕「称徳王権論」『日本古代王権と貴族社会』八木書店、2023年、P238-240.
  21. ^ https://www.sankei.com/article/20161028-QEOCFWYB5BNADDD5HYS7BMQ5I4/2/
  22. ^ 渡辺、336p
  23. ^ 渡辺、337p
  24. ^ 上野正裕「称徳王権論」『日本古代王権と貴族社会』八木書店、2023年、P255-257.
  25. ^ 天皇陵(宮内庁)。
  26. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)9コマ。
  27. ^ 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 409。
  28. ^ 「なぜ奈良時代には四文字の元号があるのか?」岡山県立図書館) - レファレンス協同データベース


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