孝賢純皇后とは? わかりやすく解説

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孝賢純皇后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/07 10:29 UTC 版)

孝賢純皇后
清朝皇后
『孝賢純皇后朝服像』
在位 乾隆2年12月4日 - 乾隆13年3月11日
1738年1月23日 - 1748年4月8日

別称 孝賢誠正敦穆仁恵徽恭康順補天昌聖純皇后
出生 康熙51年2月22日
1712年3月28日
死去 乾隆13年3月11日
1748年4月8日
徳州
埋葬 裕陵
配偶者 乾隆帝
子女 端慧皇太子永璉
固倫和敬公主
哲親王永琮
氏族 フチャ氏(富察氏)
父親 リルンバオ(李栄保)
母親 ギョロ(覚羅)氏
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孝賢純皇后(こうけんじゅんこうごう、満州語:ᡥᡳᠶᠣᠣᡧᡠᠩᡤᠠ
ᡝᡵᡩᡝᠮᡠᠩᡤᡝ
ᠶᠣᠩᡴᡳᠶᠠᠩᡤᠠ
ᡥᡡᠸᠠᠩᡥᡝᠣ
転写:hiyoošungga erdemungge yongkiyangga hūwangheo)は、乾隆帝皇后満洲鑲黄旗の出身。姓は富察(フチャ)氏(Fuca hala)。チャハル総管の李栄保(リルンバオ)の娘。乾隆帝の最年少の妃嬪である晋妃富察氏は従孫娘にあたる。また、弟の傅恒は武将として活躍した。

子女

生涯

雍正5年(1727年)、宝親王の弘暦(後の乾隆帝)に嫁ぎ、嫡福晋(正室)となった。夫婦仲は良く、乾隆帝との間には雍正6年(1728年)に長女、雍正8年(1730年)に次男の永璉を出産するが、いずれも夭折した。雍正9年(1731年)、三女の固倫和敬公主を出産する。

乾隆帝が即位すると、皇后に立てられた。乾隆11年(1746年)に乾隆帝の皇七子の永琮を出産するが翌年に夭折した。皇后は嘆き悲しみ、皇太后(孝聖憲皇后)に同行して泰山へ行幸したが、その際に病気になり、乾隆13年(1748年)に亡くなった。皇太后・皇帝とともに北京へ還御する途上、山東省の徳州あたりの舟の中で息を引き取った。裕陵に最初に葬された。

乾隆帝は皇后の死を悲しみ、「早知失子兼亡母 何必当初盼夢熊(母子二人が亡くなったことを知っていたら、当初は男の子とは期待していなかった)」と詠んだ。

逸話

倹約家であり、宝石や玉を好わずに絨花を装飾品とする。

生前、高佳氏に「慧賢皇貴妃」の諡号を与えた乾隆帝にねだって「孝賢」の諡号を約束させた。

登場作品

テレビドラマ

伝記資料




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