荘順皇貴妃とは? わかりやすく解説

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荘順皇貴妃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/09 14:31 UTC 版)

荘順皇貴妃
清朝皇貴妃
別称号 琳貴人→秀常在→琳貴人→琳嬪→琳妃→琳貴妃→琳貴太妃→琳皇貴太妃→(死後)荘順皇貴妃

出生 道光2年(1822年
北京
死去 同治5年(1866年
順天府
埋葬 慕陵妃園寝
結婚 道光17年 (1837年) 1月
配偶者 道光帝
子女 奕譞(醇親王)
寿荘固倫公主
奕詥(鍾親王)
奕譓(孚郡王)
氏族 烏雅氏
父親 霊寿(リンシェウ)
母親 翁氏
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荘順皇貴妃(そうじゅんこうきひ、満洲語: ᡨᠣᠪ
ᡳᠵᡳᠰᡥᡡᠨ
ᡥᡡᠸᠠᠩ
ᡤᡠᡳᡶᡝᡳ
[1] 転写:tob ijishūn hūwang guifei、道光2年(1822年) - 同治5年(1866年))は、の第8代皇帝道光帝の側室で、第11代皇帝光緒帝の祖母。第12代皇帝宣統帝の曽祖母。満洲正黄旗の出身。姓はウヤ(烏雅)氏(Uya hala)。筆貼式(七品以下の文員)の霊寿(リンシェウ)の娘。母は妾の翁氏[2]

道光帝より40歳年下であった。道光15年(1835年)、「琳貴人」に封ぜられた。道光17年(1837年)、「秀常在」に降格された。道光18年(1838年)、琳貴人に復帰した。その後、醇親王奕譞(光緒帝の父)など4人の子女を産み、琳嬪琳妃に進み、琳貴妃にいたった。

咸豊帝が即位すると、琳貴太妃に尊封された。また同治帝の即位後、琳皇貴太妃に尊封された。数え45歳で薨去し、慕陵の妃園寝に陪葬された。

子女

  • 奕譞(醇親王)
  • 寿荘固倫公主
  • 奕詥(鍾親王)
  • 奕譓(孚郡王)

脚注

  1. ^ 内務府檔冊
  2. ^ 『烏雅氏族譜』

参考文献

  • 『清宣宗実録』
  • 清史稿』后妃



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