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愛新覚羅奕譞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/13 16:37 UTC 版)

愛新覚羅奕譞
愛新覚羅氏

称号 醇親王
出生 道光20年9月21日( (1840-10-16) 1840年10月16日
死去 光緒16年11月21日( (1891-01-01) 1891年1月1日(50歳没))
配偶者 嫡福晉醇賢親王嫡妃婉貞西太后の妹)
子女 載瀚、載湉、載洸、載灃、載洵、載濤
父親 道光帝
母親 荘順皇貴妃
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愛新覚羅 奕譞(あいしんかくら えきけん、アイシンギョロ・イフワン、満州語ᠠᡞᠰᡞᠨ ᡤᡞᠣᠷᠣ
ᡞ ᡥᡠᠸᠠᠠ
、転写:1840年10月16日 - 1891年1月1日)は、の皇族。道光帝の皇七子で、初代醇親王。母は荘順皇貴妃。兄は咸豊帝・惇親王奕誴恭親王奕訢。子には光緒帝載灃がおり、愛新覚羅溥儀の父方の祖父である。は賢。

生涯

道光30年(1850年)、兄の咸豊帝が即位すると醇郡王に封ぜられた。咸豊11年(1861年)に咸豊帝が崩御すると東太后・西太后ともう1人の兄・恭親王奕訢に協力してクーデターを起こし、怡親王載垣・鄭親王端華粛順らを排斥(辛酉政変)、甥の同治帝が即位すると都統・御前大臣・領侍を命ぜられ、親王に上った。西太后から謙虚な姿勢を気に入られ様々な特典を与えられたが、政争に巻き込まれないよう慎重に日々を過ごした[1]

光緒元年(1875年)、同治帝が子を残さずに死去すると、西太后は自身の妹を母とする奕譞の次男の載湉を同治帝の子として即位させた(光緒帝)。奕譞は実子の即位と共に官職を退いたが、光緒10年(1884年)の清仏戦争の処理をめぐって恭親王が軍機大臣を罷免されると代わって起用され、総理海軍事務衙門大臣にも任じられ海軍を統括、李鴻章慶親王奕劻を補佐役として活動に当たった。

以後も西太后や周囲と良好な関係を保ち、光緒17年(1891年)に50歳で死去。五男で光緒帝の異母弟の載灃が爵位を継ぎ醇親王となった。

海軍衙門大臣時代に海軍費用を頤和園の建設費に流用したことは悪名高く、清の主力海軍だった北洋艦隊は10年間武器の更新が出来ず艦隊の追加購入も不可能になり、日清戦争における敗北の遠因になった。一方で謙虚に振る舞い西太后や栄禄ら保守派(后党)だけでなく、光緒帝の側近翁同龢ら革新派(帝党)とも親交を結んでいたことは緩衝地帯として両派の衝突を防いでいたが、奕譞の死により対立は避けられなくなり、日清戦争の敗北で両派の対立は決定的となり以後の政争に繋がった[2]

家族

  • 嫡福晋葉赫那拉氏(1841年–1896年) - は婉貞。道員「承恩公」惠徵の娘で、西太后の妹、光緒帝の生母である。光緒22年(1896年)5月に病没した。
    • 長女 - 嫡福晋葉赫那拉氏所生の娘。咸豊11年(1861年)辛酉3月2日申の刻に誕生。同治5年(1866年)9月4日に那爾蘇が額駙(王女の夫)に選ばれ、9月20日に婚約の儀が執り行われ、醇郡王府で婚礼の儀を済ませた。しかし10月18日辰の刻に夭折した。享年わずか6歳。
    • 長男:載瀚 - 嫡福晋葉赫那拉氏所生。 同治4年(1865年)乙丑1月6日辰の刻に誕生し、翌5年(1866年)11月3日未の刻に死去。享年2歳。
    • 次男:載湉 - 嫡福晋葉赫那拉氏所生。後の光緒帝
    • 三男:諱不詳(名付けられていない) - 嫡福晋葉赫那拉氏所生。光緒元年(1875年)乙亥1月8日子の刻に生まれ、翌9日午の刻に死去。
    • 四男:載洸 - 嫡福晋葉赫那拉氏所生。光緒6年(1880年)庚辰10月26日酉の刻に生まれ、10年(1884年)4月24日申の刻に死去。享年5歳。
  • 側福晋葉赫顏扎氏 - 来福の娘。光緒5年、内務府選秀において、西太后により醇親王に下賜されて官女子(宮女)となった。光緒7年に病没し、死後側福晋の称号を追贈された。
  • 側福晋劉佳氏 - 名は翠妍(1866–1925年)、五品官・典衛德慶の娘。宣統帝の祖母。翠妍はもともと奕譞府の鑲白旗に属する包衣であったが、側室として迎えられたことで家族ごと包衣から満洲正規旗人に昇格し、姓も劉氏から劉佳氏に改められた。光緒9年1月に醇賢親王第五子・載沣を生み、同年10月に奕譞が側室・劉佳氏の側福晋への冊封を上奏した。
    • 第五子:載灃 - は伯涵で、は静雲、側福晋劉佳氏所生。宣統帝の父、摂政王醇親王を継承。
    • 第六子:載洵 - 字は仲泉で、号は癡雲、同じく劉佳氏所生。瑞郡王奕誌の嗣子となる。清末の海軍大臣。
    • 第七子:載濤 - 字は叔源で、号は野雲、同じく劉佳氏所生。初めは貝子奕謨の嗣子となるが、後に鐘郡王奕詥の嗣子に変更。清末の軍諮府大臣。1949年以降は中華人民共和国の馬政局顧問、人民解放軍総後勤部馬政部顧問、第一〜三期全国人民代表大会代表を務めた。
    • 次女:劉佳氏所生。3歳で夭折。
  • 側福晋李佳氏 - 内務府正白旗二甲・錫恒の管領下、清茶房(宮中の茶係)に仕える掌・德純の娘。光緒10年2月20日、正白旗の拜唐阿・德純の娘で長春宮下の官女子大妞(※北京の習俗では娘を「妞妞」と呼び、長女=「大妞」)として醇親王に下賜された。光緒13年10月に醇賢親王第三女(郡君)を出産し、15日後に奕譞が李佳氏の側福晋への冊封を上奏した。光緒22年1月、醇親王府が李佳氏の出自を照会する奏文を提出。
    • 第三女 - 李佳氏所生。光緒13年(1887年)10月9日に生まれ、一等忠勇公・松椿に嫁いだ。中華民国3年(1914年)に28歳で死去。
  • 官女子某氏 - 鑲黄旗・英俊佐領下の蘇拉長清の娘・大妞(長女または固有名)。光緒12年2月、醇親王に下賜された[3]

系譜

愛新覚羅奕譞の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖父:雍正帝
 
 
 
 
 
 
 
曾祖父:乾隆帝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖母:孝聖憲皇后鈕祜禄氏
 
 
 
 
 
 
 
祖父:嘉慶帝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外高祖父:内管領魏清泰
 
 
 
 
 
 
 
曾祖母:孝儀純皇后魏佳氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外高祖母:楊佳氏
 
 
 
 
 
 
 
父:道光帝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外高祖父:常安
 
 
 
 
 
 
 
外曾祖父:承恩公和爾経額
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外高祖母:李佳氏
 
 
 
 
 
 
 
祖母:孝淑睿皇后喜塔拉氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外曾祖母:王佳氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
醇賢親王奕譞
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外高祖父:巴里坤鎮総兵凝德
 
 
 
 
 
 
 
外曾祖父:通判百禄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外祖父:筆帖式霊寿
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
母:荘順皇貴妃烏雅氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外祖母:翁氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注

  1. ^ 加藤、P110 - P122、P151 - P154。
  2. ^ 並木、P232 - P237、加藤、P176 - P178、P185 - P188、P200 - P206。
  3. ^ 光緒12年2月16日、総管太監・劉得印『醇親王およびその福晋に官女子各1名を下賜する件』、中国第一歴史档案館所蔵。

参考文献




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