愛新覚羅奕ソウ
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愛新覚羅 奕誴 | |
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和碩惇親王 | |
続柄 | 道光帝第五皇子 |
出生 |
道光帝11年6月15日(1831年7月23日)![]() |
死去 |
光緒15年1月19日(1889年2月18日)![]() |
父親 | 道光帝 |
母親 | 祥妃鈕祜禄氏 |
惇親王奕誴(えきそう)は、道光帝の第五皇子である。
生涯
道光11年(1831年)6月15日に誕生。生母は祥妃鈕祜禄氏である。
道光15年(1835年)12月15日、天然痘にかかり、快癒を祈願するための儀式が行われた。この際、祥妃は昇平署(宮廷の楽団)の宦官に恩賞を与えたが、道光帝は通常の慣例に従わず、これらの宦官に何の恩賞も与えなかった。この冷遇は、道光帝が奕誴の母・祥妃を嫌っていたためとされる。
道光21年(1841年)4月26日、道光帝は奕誴ら皇子たちに対し、曹八里屯の一時安置所で惇恪親王綿愷の棺の出発を見送り、献酒の儀式を行うよう命じた。
道光26年(1846年)1月、奕誴は綿愷の養子となり、多羅惇郡王の爵位を継承した。
咸豊元年(1851年)1月、皇帝が寿皇殿(歴代皇帝の位牌を祀る場所)で儀式を行う際、惇郡王奕誴は柳樹井の柵欄(宮廷の門)を通って入殿したが、このとき、満洲鑲黄旗(上三旗の一つ)の歩兵隊長・善興らが彼を阻止することはなかった。
同治4年(1865年)、宗人府宗令(皇族の戸籍や管理を司る長官)に任命される。
光緒15年(1889年)1月19日に薨去し、諡号を「勤」と賜る。同日、光緒帝は陀羅経被(仏教経典を織り込んだ布)を下賜し、総管内務府大臣・師曾に葬儀を執り行わせた。さらに、光緒帝は西太后とともに奕誴の邸宅を訪れ、弔問の儀式を行った。
家族
妻妾
- 嫡福晋:烏梁海済爾默特(ウリャンカイ・ジルメト)氏 - 喀喇沁(カラチン)部の扎薩克(ジャサク)・杜棱郡王色伯克多爾濟の娘。
- 側福晋:赫舍里(ヘシェリ)氏 - 領隊大臣貴文の娘。
- 側福晋:王佳氏 - 全祥の娘。
- 側福晋:富佳氏 - 富徳の娘。
- 庶福晋:李佳氏 - 李成の娘。
- 庶福晋:趙佳氏 - 都赫額依の娘。
子女
男子8人(うち5人が爵位を受ける)
- 載濂 - 長男(母:側福晋赫舍里氏)。初め、一等輔国将軍 に封じられ、その後 輔国公に昇進。貝勒を襲爵し、さらに郡王の称号を加えられる。光緒25年(1899年)に頭品頂戴(最高級官帽)を賜るり、光緒26年(1900年)、義和団を庇護したため爵位を剥奪。その後、弟の載瀛が爵位を継承。
- 載漪 - 次男(母:側福晋赫舍里氏)。嘉慶帝の第四皇子瑞親王綿忻の養子となる。瑞郡王 奕誌(元名:奕約) の後を継ぎ、貝勒を襲爵、その後、端郡王に昇進。息子溥儁は一時「皇太子」に擁立されるが、廃される。
- 載澜 - 三男。三等輔国将軍に封じられ、のちに不入八分輔国公へ昇進。義和団を庇護したため爵位を剥奪され、新疆へ流罪となる。
- 載瀛 - 四男。二等鎮国将軍に封じられ、その後不入八分輔国公 の称号を加えられる。兄の載濂の爵位を継ぎ、貝勒となる。
- 載津 - 五男(母:側福晋王佳氏)。二等鎮国将軍に封じられ、その後、不入八分輔国公の称号を加えられる。
- 載泩 - 六男(夭折)
- 載浵 - 七男(夭折)
- 載灝 - 八男(夭折)
参考文献
- 『清史稿』
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