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愛新覚羅允トウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/22 19:33 UTC 版)

愛新覚羅允祹
ᠶᡡᠨ
ᡨ᠋ᠣᠣ
愛新覚羅氏
続柄 康熙帝第十二子

出生 康熙24年12月24日1686年1月18日
死去 乾隆28年7月24日1763年9月1日
配偶者 沙濟富察氏
子女 本文参照
父親 康熙帝
母親 定妃瓦琉哈氏
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愛新覚羅 允祹(あいしんかくら いんとう、アイシンギョロ・イントウ、満州語ᠶᡡᠨ
ᡨ᠋ᠣᠣ
、転写:aisin-gioro yūn too、康熙24年12月24日1686年1月18日) - 乾隆28年7月24日1763年9月1日))は、康熙帝の第十二子。

生涯

生母は定妃瓦琉哈氏。元の名は胤祹。

胤祹は幼少のころ孝荘文皇后に仕えていたモンゴル族の侍女蘇麻喇姑(スーマラグ)に養育され、兄弟間の皇位をめぐる争いには加わらなかった。


康熙48年(1709年)、胤祹は貝子(親王より下の王位)に封じられた。

雍正元年(1723年)には履郡王に封じられ、翌年ふたたび貝子に降格されたが、雍正8年には郡王の位を回復し、雍正13年(1735年)に親王へと昇進した。

乾隆28年(1763年)7月24日の未刻(午後1時頃)、胤祹は病没した。享年77歳であり、康熙帝の子の中で最も長寿であった。諡号は「」。子は2人。乾隆帝の第四子・永珹を嗣孫とした。

家族

妻妾

嫡福晋

  • 沙済富察氏 - 大学士・馬斉の娘。乾隆帝孝賢純皇后および傅恒の従姉にあたる。康熙45年の『玉牒』の記載によれば、第十二子・胤祹にはすでに嫡妃・富察氏(大学士馬齊の娘)がいた。

側福晋

  • 方佳氏 - 四品典衛・方文彬の娘。履親王の唯一の子・弘昆を生む。
  • 管佳氏 - 管有倉の娘。

庶福晋

  • 王佳氏 - 王徳政の娘。
  • 李佳氏 - 軽車都尉・車爾特の娘。康熙45年の『玉牒』の記載によれば、第十二子・胤祹にはすでに子をもうけた侍妾・李佳氏がいた。
  • 邁氏 - 員外郎・九格の娘。
  • 陳氏 - 陳大麻の娘。

媵妾

  • 李氏 - 李大の娘。

侍妾

  • 姚氏 - 管領・瑪色の娘。康熙45年の『玉牒』の記載によれば、第十二子・胤祹にはすでに子をもうけた侍妾・姚氏がいた。

子女

  • 第一子(名なし) ― 康熙42年(1703年)癸未2月8日卯刻に生まれる。母は妾・姚氏。出生の月14日戌刻に死去。
  • 第一女:郡主 ― 康熙42年癸未10月22日巳刻に生まれる。母は庶福晋・李佳氏。康熙60年(1721年)辛丑5月に科爾沁博爾済吉特氏台吉達爾瑪達都に嫁ぐ。乾隆32年(1767年)丁亥2月20日未刻に死去、享年65歳。
  • 第二子(名なし) ― 康熙45年(1706年)丙戌6月26日寅刻に生まれる。母は嫡福晋・富察氏。康熙46年(1707年)丁亥4月14日戌刻に死去、享年2歳。
  • 第三子:弘是 ― 康熙46年丁亥7月5日午刻に生まれる。母は嫡福晋・富察氏。康熙49年(1710年)庚寅8月20日酉刻に死去、享年4歳。
  • 第二女(名なし) ― 雍正元年(1723年)癸卯6月7日未刻に生まれる。母は媵妾・李氏。出生の月に死去。
  • 第三女(名なし) ― 雍正6年(1728年)戊申正月13日寅刻に生まれる。母は側福晋・管氏。出生時に死去。
  • 第四子(名なし) ― 雍正6年戊申12月22日に生まれる。母は側福晋・方佳氏。雍正9年(1731年)辛亥3月24日辰刻に死去、享年4歳。
  • 第四女:郡主 ― 乾隆元年(1736年)丙辰7月15日申刻に生まれる。母は側福晋・方佳氏。乾隆18年(1753年)癸酉正月に富察氏・明亮に嫁ぐ。道光5年(1825年)乙酉4月1日未刻に死去、享年90歳。
  • 第五子(世子):弘昆 ― 乾隆4年(1739年)己未9月25日卯刻に生まれる。母は側福晋・方佳氏。乾隆15年(1750年)庚午3月20日寅刻に死去、享年12歳。弘昆は常に定太妃の寵愛を受けており、乾隆帝の勅命により、葬礼はすべて世子の礼に従って行われた。
  • 第五女:郷君 ― 乾隆5年(1740年)庚申正月21日亥刻に生まれる。母は庶福晋・王佳氏。乾隆21年(1756年)丙子2月に博爾済吉特氏・袞斉拉喜に嫁ぐ。嘉慶2年(1797年)丁巳2月10日に死去、享年57歳。
  • 第六女(名なし) ― 乾隆6年(1741年)辛酉6月14日卯刻に生まれる。母は側福晋・方佳氏。乾隆8年(1743年)癸亥12月3日亥刻に死去、享年3歳。
  • 第六子(名なし) ― 乾隆7年(1742年)壬戌4月29日未刻に生まれる。母は側福晋・方佳氏。出生の月30日丑刻に死去。

府邸旧址

允祹の府邸は、東直門北小街の針線胡同にあり、誠貝勒允祁の府邸と隣接していた。府邸の正門は5間、正殿は7間、東西の配楼はそれぞれ5間、後殿3間、後寝殿5間、後罩房5間から成っていた。光緒年間、隣接する東正教堂義和団によって破壊されたため、ロシア軍の報復に遭い、王府は焼失した。その後、履王家は隆福寺西口の馬市大街に移り住み、これが「植公府」と呼ばれるようになった。

登場作品

テレビドラマ

参考文献

  • 清史稿』220巻
  • 『清皇室四譜』



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