第2の事件
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学校占拠の直後、高井理事長と3人の男生徒が失踪した。生徒の1人の父親で、刑事の三留(高橋和也)は息子を救うべく単身調査に奔走。その中で息子のクラスメイトだった湯浅の自宅を訪問、母子の奇妙な反応を怪訝に思う。一方、湯浅は入院中の中村を訪ね、彼女に封筒を渡す。ほどなくして、町内の病院で、徳明館高校の生徒らが手掛けたオブジェのお披露目会が模様されるが、その最中に院内のプールで失踪した生徒の内2人が発見される。2人は拘束され、頭部には時限爆弾が仕掛けられていた。オブジェの後ろに描かれたQRコードを読み取ると、学校占拠と同じ覆面をつけた男の動画が再生される。「爆弾を解除するには、町中の自転車に取り付けたパズルのピースを集めろ」という宣告に従い、町中の自転車を追って父兄や警察が奔走する。ほとんどのピースが集まるが、最後の1ピースが見つからない。2人を静観していた中村は、ふと湯浅に渡された封筒を思い出す。封筒にはパズルの最後のピース2つが入っていた。だが中村はピースを差し出すことなく焼き捨てる。生徒2人は時間切れによって死亡した。 しばらく経ち、湯浅が退院した中村を自宅の地下室へ招く。そこには高井理事長と三留が監禁されていた。中村は以前に高井と、三留ら3人の生徒の暴行を受けた。さらに現場に居合わせた安田は高井の口止め料によって閉口していた。湯浅は暴行の映像をダシに3人を脅迫、安田を流産させ、さらに2人の生徒の生死を中村に委ねたのだった。そんな中、湯浅が主犯だと確信した三留が湯浅宅に乗り込んでくる。湯浅母子と格闘の末、三留は自らの息子を前にして失神する。中村はその日を境に湯浅と共闘、高井と三留への復讐のため最後の事件を起こそうとする。
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第2の事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 15:54 UTC 版)
第2の事件は、2007年12月25日に発生した。閉園間近の午後5時ごろ、タチアナは飼育場から脱走して来園者に襲いかかった。襲撃を受けたのは3人の若い男性で、そのうちカルロス・ソーサ(Carlos Eduardo Sousa Jr、当時17歳)が死亡し、ソーサの友人であるクルビル・ダルワリ(Kulbir Dhaliwal、当時23歳)とポール・ダルワリ(Amritpal "Paul" Dhaliwal、当時19歳)の兄弟が負傷した。 負傷した兄弟は、トラの飼育場から約300ヤード(270メートル)離れたところにある動物園のカフェまで逃げて救助を要請した。ポールは閉店直後で施錠されていたカフェの外から大声で助けを求めたが、カフェの扉は開かなかった。カフェの責任者は園側の警備責任者に電話し、園側は午後5時7分に警察に通報した。ただし、カフェの責任者はこの通報が精神状態が不安定な者によってなされたという疑念を表明したために警察の出動が遅れた。警察と救助隊員が動物園にようやく到着したとき、トラの園内からの逃走を防ぐために警備を強化していた動物園側の体制によってさらに警察と救助隊員は園内に入るのが妨げられた。トラの飼育場では当時4頭が飼育されていたが、脱走したのはタチアナのみであった。 ソーサは救助隊員の到着前に、トラの飼育場近くで動物園の従業員によって発見された。当初の通報から13分後、警察と救助隊員はソーサのいる場所まで辿り着いた。ソーサは喉に深い傷を負っていて、後の検死結果によると頭、首、胸部、頭蓋骨及び脊椎の骨折と頸静脈が切断されていた。警官4名と動物園の射撃部隊がタチアナを見つけたとき、そのそばにクルビルがいたためすぐに射殺することはできなかった。混乱の後にタチアナは警官たちの方に向き直ったため彼らは銃を撃ち、タチアナは絶命した。 タチアナの頭部と足、尾はサンフランシスコ警察の法医学調査のために切断され、胃の内容物も検査された。その結果、タチアナは前頭部への銃撃で死亡し、胃の内容物からは人体組織は発見されなかったことが判明した。 生き残ったダリワル兄弟は、頭、首、腕などに咬傷とひっかき傷を負った。2人とも怪我の程度は軽く、12月29日に病院から退院した。 この事件は、サンフランシスコ動物園開園以来、初の動物による来園者の死亡という結果になった。園側は2008年1月3日まで閉園したが、2007年12月31日に園内のホールで予定されていた結婚披露宴のみは日程の通りに挙行されている。開園後もトラとライオンの公開はしばらくの間中止されていた。
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第2の事件
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1999年5月29日、元パチンコ店員男性(当時61歳)に対し、風邪薬と酒を大量に飲ませて殺害。偽装結婚相手のホステスを受取人とする生命保険として保険金1億7000万円がかけられていた。
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第2の事件(藤沢事件)
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「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の記事における「第2の事件(藤沢事件)」の解説
藤沢事件の現場(神奈川県藤沢市辻堂神台二丁目7番3号、事件当時の被害者少女A宅) 事件現場は日本国有鉄道(国鉄 / 現:JR東日本)東海道線・辻堂駅から北へ約2 km地点に位置し、夜間はほとんど人通りのない閑静な住宅街の一角だった。
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第2の事件(東京)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:14 UTC 版)
「青酸コーラ無差別殺人事件」の記事における「第2の事件(東京)」の解説
同月4日の午前8時15分ごろ、前述の男子高校生がコーラを拾った電話ボックスから第一京浜を約600m北に行った歩道上で、作業員(当時46歳)が倒れているのが発見され、こちらも病院に運ばれたが死亡が確認された。死因は第一の事件と同様に青酸中毒であった。また、男性が倒れていた場所の近くには、男性が開栓したとみられるコーラのびんが発見され、残っていたコーラから青酸反応が検出された。 警察が周辺を捜索したところ、同日午後0時すぎごろ、作業員がコーラを拾った電話ボックスから約600m離れた品川区にある商店の赤電話に、青酸入りのコーラが置かれているのを発見した。それ以前にその商店の息子(当時15歳)が用事で出かける際にこのコーラを発見していたが、用事の後に飲もうと思いそのまま出かけたため、間一髪で難を逃れている。彼がコーラに毒物が入っていたことを知ったのは、用事から帰宅した時に警察官が来訪していたためであった。 警察は一連の事件を受け、同一犯の可能性が高いとみて、コーラが人気である若者世代や、青酸化合物を入手しやすい塗装業・加工業者をあたったが、物証に乏しく、犯人・犯行を特定できず、事件は謎を多く残したまま1992年(平成4年)1月4日午前0時(日本標準時・UTC+9)をもって公訴時効が成立し、未解決事件となった。
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第2の事件
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「宇都宮市連続爆発事件」の記事における「第2の事件」の解説
第1の事件があった約6分後の午前11時40分頃に宇都宮城址公園で人が燃えているのを別の警察官が発見。のちに被疑者の元自衛官の死亡が確認される。死因は胸腹部挫滅。栃木県警の調べで腹部付近に爆発物をベルトの様なもので固定し、公園のベンチに座って爆発させたとみられている。死亡した被疑者の靴下には遺書がはさまれていた。近くを通りがかった中学生ら3人が巻き込まれ重軽傷を負った。公園では爆発物に使用したとみられるコイル、リード線、釘、ビー玉などが散乱していた。事件当時、公園では「宇都宮城址まつり」が開催中で、事件の時間帯には江戸時代の日光社参を模した子供らによる「社参行列」が現場近くを通過予定だったが、進行の遅れから被害はなかった。
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第2の事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 07:29 UTC 版)
第2の事件はより深刻なものだった。10月22日、軽巡洋艦「モーリシャス」「リアンダー」、駆逐艦「ヴォラージ(英語版)」「ソーマレス(英語版)」の4隻で構成されるイギリス海軍の艦隊が、無害通航権に対するアルバニアの反応を試すという明確な命令のもと、コルフ海峡を北上するよう命じられた。乗組員には、攻撃されたら応戦するよう指示されていた。 艦隊は「モーリシャス」を先頭に、「ソーマレス」を従えて、アルバニア沿岸の機雷がない場所と考えられる場所を通過していた。「リアンダー」は「ヴォラージ」と共に、先頭の2隻から約1.3海里離れて航行していた。午後3時前、サランダ湾の近くで「ソーマレス」が触雷し、大きな損傷を受けた。「ヴォラージ」は「ソーマレス」を南のコルフ島の港まで曳航するよう命じられた。 午後4時16分頃、曳航中の「ヴォラージ」も触雷し、大きな損傷を受けた。両艦とも艦首が完全に吹き飛ばされ、悪天候もあって、艦尾を前にして航行していたため、曳航作業は困難を極めたが、12時間後かけてコルフの港に到着した。この事故で44人が亡くなり、42人が負傷した。 死者のうち32人から43人は「ソーマレス」の乗組員だったと推定されている。「ソーマレス」は修復不可能な損傷を受けたが、「ヴォラージ」は修復可能であった。このときはアルバニアの沿岸砲台は砲撃せず、アルバニア海軍(英語版)の艦艇がアルバニア国旗と白旗を掲げて現場に接近した。当時のアルバニアには機雷を敷設可能な船舶がなかったため、この機雷は10月20日頃、アルバニアの要請を受けたユーゴスラビアの水雷艇「ムリェット」「メルジン」が敷設したものと見られる。 事件当時のイギリスの年金大臣は、この事故で死亡した者の遺族と障害を負った者に満額の軍人年金を支給した。
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第2の事件(東京都目黒区歯科医師強盗殺人事件)
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「マブチモーター社長宅殺人放火事件」の記事における「第2の事件(東京都目黒区歯科医師強盗殺人事件)」の解説
当初の計画とは異なり、本事件では馬渕邸にある金品を強取しただけで、予想していたほどの大金を得られなかった。そのため、小田島は自動車学校の費用・生活費・パチンコ代などに、Mも旅行・フィリピン女性との交際・パチンコなどの遊興費などに、それぞれ強奪した金品を浪費した。 これにより2人は金銭に窮したため、Mは事件から約1か月後の2002年9月頃、フィリピン旅行から帰国して以降、「再び本事件のような事件を起こし、大金を手に入れたい」と思うようになり、小田島に対し「また資産家を狙おう」と提案した。 Mは、小田島から「すぐには計画を立てられない」と言われたことから、その後しばらくは、Mのアパートで同居しつつ、2人でマンションなどへの空き巣狙いで、窃盗を繰り返して生活していたが、その後「どうせ捕まる危険を冒すのであれば、資産家の家に押し入り、家人を縛り上げて大金を奪う方がよい」と思い、再び小田島に対し、資産家を狙おうと催促するようになった。 小田島は、以前犯行標的の候補として検討していたゲームソフト会社の社長宅を狙おうと考えたが、Mとともに同社長宅を下見に行ったところ、防犯設備が整っていたことから、同宅を狙うことを断念した。しかし、その帰宅中に小田島は「歯科医であれば金を持っているだろう」と考え、立ち寄ったコンビニエンスストアから取ってきた職業別電話帳を調べたところ、東京都品川区内(東急目黒線・武蔵小山駅付近)の、歯科医院の広告が掲載されていた。これに目を付けた小田島は、Mに対し、同医院を経営する目黒区目黒本町在住の歯科医男性C(当時71歳)宅を標的とし、狙うことを提案すると、Mはこれを承諾した。 2002年9月19日、2人は歯科医院・C宅周辺を下見した結果、C宅には入りやすいと判断し、同所で強盗殺人を行うことを決めた。小田島が具体的な計画として、夕方に歯科医院の前でCが帰宅するために出てくるのを待ち、家までCの後をつけ、Cが家に入ったところ、ナイフで脅して家に押し込み監禁して金を出させることとし、金を奪った後、マブチモーター事件と同様に家人を皆殺しにし、現場から逃走するという計画を立てた。 2人はその後、犯行に使用するナイフ・手袋を用意し、2002年9月23日には、翌24日に計画を実行することを決めた。 2人は事件当日の2002年9月24日、Mが運転する車で歯科医院に赴き、少し離れた場所に車を駐車した。その後、再度C宅を下見し、歯科医院の診療終了時刻が近づくと、帰宅するCが歯科医院から出てくるのを医院付近で待っていた。しかし夕方になっても、Cが一向に出てこなかったことから、Cが出てきたのを見逃したかもしれないと考えた2人は、小田島がC宅に向かった上でMが歯科医院前に残り、小田島からの電話連絡を待つことにした。現場となったC宅は、東急目黒線西小山駅から北約300mの住宅街の一角だった。 2002年9月24日午後6時30分頃、小田島は勝手口のドアからC宅に押し入り、Cの左側胸部を突き刺すなどして、被害者Cに肺損傷を伴う刺傷を負わせた。小田島はそのまま、C所有の現金約35万円・カレッジリング1個(時価3万円相当)を強奪すると、C宅から徒歩約10分の距離にある歯科医院前で待機していたMを電話で呼び出した。この時点でCは、既に両手をコードのようなもので縛られており、腹部から大量の血を流しながら居間の床の上に倒れ、身動きを取れず弱い呼吸をしていた。 その後、小田島から「(首を)絞めてくれ」とCの殺害を指示されたMは、殺意を持った上で、Cの首をタオルで首を力一杯絞めつけた。被害者Cは顎が少し上がった状態で「うっ」と苦しそうな声を出し、体が緊張した状態になったが、そのままMが首を絞め続けると首の力が抜け、やがて力が抜けてだらんとした状態のまま、身動きをしなくなった。Cはこの結果、左側胸部を刺されたことにより左肺を損傷しており、これに起因した胸腔内出血と、首を絞められたことによる窒息により死亡し、殺害された(強盗殺人罪)。 被害者Cの遺体を司法解剖しその死因などの鑑定をした医師が、小田島の公判で証人として出廷・証言し、刑事裁判で事実認定された内容は以下のようなものだった。 被害者Cの肺損傷による胸腔内出血・首を絞められたことによる窒息は、いずれも単独で、最終的に脳の循環障害を生じさせるものである。そのため、小田島被告人・被告人Mのどちらの原因がより直接的に効いたかは判断できないという意味で、死因が競合しているといわざるを得ない。 しかし両者がともにある場合、片方しかない場合に比べて死期が早まることは十分考えられ、最終的には両者が死因として関与したということができるということから、小田島被告人の刺突・被告人Mの絞首とも、被害者Cの死亡という結果と因果関係を有する。 被害者Cは妻・内科医の長男との三人暮らしだったが、当時妻と長男は旅行中だった。Cはこの日、午後6時10分頃までは自分の経営する歯科医院で勤務しており、午後7時頃には近くの娘婿宅を訪れる約束をしていた。
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第2の事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/16 15:00 UTC 版)
「ビドゴシチ住民殺害事件」の記事における「第2の事件」の解説
プロンベルク血の日曜日事件が宣伝された翌日の9月9日から9月10日(日曜日)にかけて、実際の死者数やその他の被害者数では9月3日の事件をはるかに上回った「もう一つのブロンベルク血の日曜日事件」が発生した。この両日までにすでにポーランドのポメラニア軍はビドゴシチ市を離れていた。代わって同市内に入城していたドイツの第4軍の第3兵団やそれに付随してやってきた様々な準軍事組織の部隊(自衛団Selbstschutzなど)や警察部隊(ベルリン第6警察大隊など)は9月3日の事件の復讐と称して、市内や周辺の各地でおよそ3,000人のポーランド人を無作為に選んでは広場で銃殺するなどの様々な無差別殺人を行った。 当時市内にいたイギリス人女性の目撃談によると、この事件での最初の犠牲者は12歳から16歳のボーイスカウトの子供たち約100人だったという。彼らはみなマーケット広場に連れて行かれ壁沿いに立たされて問答無用で銃殺された。彼らに急いで終油の秘跡を執り行おうとしていた献身的な司祭もまたそこで撃たれた。この司祭は全身の5箇所に深い傷を負った。あるポーランド人は、子供たちが死んで横たわっているこの光景は自分の見たどんな惨事よりも悲しいことだったと語ったという。その後1週間にわたってポーランド人に対する殺人が続いた。ビドゴシチの主な小売商や貿易商のうち34人と、街の名士の多くが殺害された。人々は無作為に選別された50人から100人程度のグループ単位でマーケット広場に連れてこられ、次々に銃殺された。この広場は機関銃をもつドイツ兵によって包囲されていた。 次にはイエズス会の会員たちが襲われた。ドイツ兵は教会の建物に押し入り、略奪を行った。司祭たちはある物置小屋に連れて行かれた。そこはすでにユダヤ教徒が押し込められていた。そこで彼らはみな暴行を受けた。ビドゴシチ周辺のポモージェ(ポメラニア)地方では650人の聖職者のうち630人は銃殺されるか強制収容所に送られた。シロンスク(シレジア)地方のヴロツワフでは聖職者のうち49%が殺害された。ヘウムノ地方では48%、ウッチ地方では37%、ポズナニ地方では31%、ワルシャワでは212人の聖職者が殺害された。 ビドゴシチ精神病院では入院患者約3,700人が全て銃殺された。 ドイツ側はさらに1939年末までに13,000人のポーランド人を、ポーランド北部に建設された、のちに絶滅収容所の1つとなるシュトゥットホーフ強制収容所へと送った。このときまでに総計10,500人のポーランド人がビドゴシチとその周辺で殺害されたとされる。 ドイツのポーランド人に対するこのときの迫害・虐殺行為は1907年10月18日に締結されたハーグ陸戦条約の第三款「敵國ノ領土ニ於ケル軍ノ權力」諸事項など、戦時国際法に違反する伝統的な意味での戦争犯罪と位置づけられる。
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