踊場【オドリバ】(草花類)
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登録番号 | 第4910号 |
登録年月日 | 1996年 2月 27日 | |
農林水産植物の種類 | クレマチス | |
登録品種の名称及びその読み | 踊場 よみ:オドリバ |
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品種登録の有効期限 | 15 年 | |
育成者権の消滅日 | 2003年 2月 28日 | |
品種登録者の名称 | 小沢一薫 | |
品種登録者の住所 | 神奈川県川崎市麻生区下麻生951番地 | |
登録品種の育成をした者の氏名 | 小沢一薫 | |
登録品種の植物体の特性の概要 | ||
この品種は,「ビオルナ」に「クリスパ」を交配して育成されたものであり,花色は紫白の地色に鮮紫ピンクの覆輪が入る半開,一重咲き小輪の鉢植向き中生種である。 草型は有蔓,着花枝の発生部位は基部,葉の全形は一回羽状複葉,小葉の形は卵形,先端の形は微突形,長さは中,数は3出である。花の向きは下~斜下,一重・八重の別は一重,花形は半開,花の大きさは小,単色か複色の別は複色,複色の模様は覆輪,表面の地色は紫白(JHS カラーチャート8901),条線部の色は赤紫(同9214),複色部の色は鮮紫ピンク(同9205)である。やくの色は淡緑黄(同2903),雄ずいの長さは中,毛の有無は有,柱頭の色は明黄緑(同3504),花柄の太さ及び長さは中,芳香性は無,四季咲き性は強,開花期は中である。 「エトレイ ローズ」と比較して,表面の地色が紫白であること,柱頭の色が明黄緑であること等で区別性が認められる。 | ||
登録品種の育成の経過の概要 | ||
この品種は,出願者のほ場(神奈川県川崎市)において,「ビオルナ」に「クリスパ」を昭和63年に交配し,平成2年に開花した株の中から選抜し,以後,増殖を行いながら特性の調査を継続し,3年にその特性が安定していることを確認して育成を完了したものである。 |
踊り場
踊場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 16:48 UTC 版)
旧汲沢町および泉区側の旧中田町、現在の汲沢7-8丁目、中田東1丁目付近にそれぞれ、踊場という字名がある。踊る猫の伝説で知られる当地は、県道が戸塚方面から上ってきて中田方面へ緩やかに下る峠となっており、雨降山との別名を持ち阿夫利神社をいただく等、山岳信仰において「雨乞いの山として有名 」であった大山を正面に望む。古くはこの道は「とつか道」と呼ばれる大山道の脇道であり、東海道沿いの清源院脇から出発し矢沢を経由したのち踊場を経て東原方面へと向かう経路をたどっていた。峠部分は、古くは烏帽子山と呼ばれており、現在より3mほど高く、追はぎの出るような寂しいところだったという。伝説に関係する供養塔が駅近くに現存しており、碑文には元文2年(1737年)との年号とともに、汲沢大丸を含む戸塚周辺の町村名が刻まれている。『汲沢小史』は、踊場という地名がほかにも各所にあり、多くは村境に位置する尾根道上の広場であって物品の交換所としての機能を担っていたとの旨を指摘している。汲沢町南端部の吹上交差点からまさかりが淵市民の森方面へ抜ける道の西側も深谷町字踊場と呼ばれ、踊場交番付近と同様、尾根上の地形となっている。 踊場の峠の西北側の泉区中和田地区は戸塚との交流が少なく、江戸期中期から明治初期にかけての寺子屋の通学範囲、姻戚関係、青年団会報掲載の商店広告からみて、長後や福田等、現在の藤沢市域や大和市域とのつながりが深かった様子が観察できることから、当地がある種の境界を形成していたことがうかがえる。 伝説の背景としては、4つの村の村はずれにあたっていたことから村相互の親睦を図るために若者たちが踊った場所であるとの説、「わしゃ猫じゃ」と叫びながら踊りまくる若い娘が出没すると同時に戸塚宿で手拭いがなくなるようになったが供養塔を建てたところおさまったとする説 、市場に伴う歓楽街があり客をもてなす女が舞ったとする説等が唱えられている。『戸塚郷土誌』は奈良時代の章に出典を挙げることなく当地が市場に伴う行楽場であったとしている一方、『明治三年庚午十一月汲沢村明細帳』には「市場 なし」との記載がある。 明治維新に至るまで寂しい所であったが故に生じる問題を受け、明治3年(1871年)、汲沢の郷士のひとりが家を建てて家族に番人役をゆだねたことを機に、当地に人が住むようになった。明治35年(1902年)に着工した長後街道の建設が大正3年(1914年)に完成し、バスも走るようになると事情も一変。国鉄勤務者を中心に移住が始まる。昭和3年(1928年)、東明土地株式会社が土地分譲を開始。翌年には旧汲沢町字一丁ヶ谷小字五三枚の53区画を売り出したが、富裕層でなければ購入できない価格であったといい、軍人、実業界の大物、役人らが移り住んだ。それらの人々により地域活動が開始され、数年のうちに納税組合の結成、防水用水池の建設、火の見櫓の設置をみるとともに、組合会員向けに「踊場親交会」と書かれた円筒状の小田原提灯も作成されたという。 当地や周辺各地における踊場の踊る猫についての様々な形の伝承を文献調査および中田地区での現地調査に基づき紹介したうえで、踊場という場所の位置づけ、そしてそこで行われる踊りという行為の意味合い、猫との結びつき、供養塔建立の背景、新たな伝承と解釈の生成等について民俗学的考察を加えた論文がある。その論文では、『地名の語源』中の「オドリバ」という地名に関する「村里を離れたさびしい場所で、虫送り、亡霊送りなどでそこまで送っていく所、狐の踊る所」との記述、および柳田国男の「踊の今と昔」中の「全国の舞台または踊場と呼ばれる地が村の境、民居の外辺などの交通の衝に当た」り「踊りの目的=神仏を喜ばせて災害除去を祈願するため」であるとの旨の記述を引きつつ、具体的な実証も必要であると断りながらも、当地について「恐らく泉区の踊場も同様に、村境に位置し災害除去を願って踊りを踊った場所であったのではないだろうかと思われる(後略)」、「様々な話のまつわる”オドリバ”だったからこそ寒行の供養塔が建てられたとも言え、それは実際、亡くなった人や動物の霊を慰めるためであったかもしれない。」と述べられている。 フランス人民俗学者の筆による『疱瘡神』は、当地への言及はないものの、柳田国男の「踊の今と昔」を引きつつ、疫病除けの踊りについて「疱瘡踊りは疱瘡神に、踊り手の誘導に従って村から立ち去ってもらうことを目的として行われた。これはいわゆる疫病神送りであり、流行病に対する最も一般的な対抗手段である」とし、虚空蔵、山ノ神、観音、お伊勢様、疱瘡神等さまざまな神がこの種の習俗において、お参りの対象となった例を挙げている。『疱瘡神』はまた、疱瘡踊りの一種に数人で踊る馬方踊りと呼ばれる形態があり、「旦那とされる人物が馬子の馬に乗り、伊勢神社に参拝し帰ってくる」との内容の踊りであると説明したうえで、この踊りが「神の来訪を祝する踊りと考えられ」、「また、疱瘡踊りの女たちは、神がかりの巫女であったとも考えられよう。」と述べている。さらに踊りの際に女たちが歌う歌詞の例を紹介しているが、その中に「お疱瘡神さま 踊り好きでござる 踊りゃ踊れば お疱瘡も軽い」との一節があり、これを「人々は踊りによる祈願で疱瘡神に楽しい気分になってもらい、疱瘡を軽く済むものにしていただこうと考えていたものと解せられる」と解釈している。戸塚では、『新編相模国風土記稿』戸塚宿の項に、牛頭天王社、すなわちお札撒きの祭礼で知られる八坂神社の末社として「疱瘡神」との記載、上倉田村の項に「疱瘡神社 村人持」との記載があり、『東海道分間延絵図』には、牛頭天王社の西側隣接地に「疱瘡神」との書き込みが見える。『新編相模国風土記稿』中の汲沢村、中田村、深谷村の項には疱瘡の名を冠する社への直接的な言及はない一方、宮ノ前村の項には、鎌倉源五郎景政を祭神に掲げる御霊宮の末社として「疱瘡神」が挙げられており、「景政の勧請と云ふ」との説明が付されている。 汲沢、中田、深谷の3村ともに、鎌倉源五郎景政を祀る神社を有する。上述の『疱瘡神』の著者はさらに、仏教系の仏も疱瘡守護神となると指摘し、伊豆、相模地方で篤い信仰の対象となった妙心大明神を挙げるほか、「直接疱瘡神と呼ばれなくとも、ある神が疱瘡守護の神として祀られている事例も多い」としつつ、六浦明神、昭心明神、笠森稲荷の例を挙げるとともに、寛政4年(1792年)刊の相模国大山寺塔頭養智院心臓和尚による『大山不動霊験記』に見られる「多数の疾病に関する記事」の中から、踊りについての記述はないものの、現在の海老名市を舞台とする「相州大谷村五兵衛ヶ息重キ疱瘡不動尊祈リテ平癒セシ事」と題された説話(第八巻一) を紹介している。『神奈川の疱瘡神』は、旧武蔵国地域を含む神奈川県内に分布する疱瘡神のリストを掲載しているほか、箱根町畑宿の駒形神社境内の疱瘡歌碑に刻まれた「疱瘡をかろく するかの山 たかく けふ之つかみの はしめなる らむ」との碑文を紹介している。 『神奈川県民俗芸能誌 増補改訂版』は、「旧相模国の殆ど全域に渉り、少女を中心とする若い女性だけの踊と唄が明治末年ごろまで存続」したと指摘。現南足柄市関本のものが昭和20年代、「ささら踊り」との名称で、県により無形民俗文化財として指定された旨を挙げつつ、盆唄とも呼ばれるこの踊りに関して、伴奏楽器としては元来神招きの呪具であったビンササラを用い、踊りの時期は七夕と七夕前日を中心とする六月から八月の夏季であり、踊りの形態は右回りの輪になってあるいは列をなし、全身屈と引き足との組み合わせを伴うものであると紹介。同書はまた、南足柄と同様のリズムが、汲沢、藤沢市葛原、藤沢市遠藤、厚木市愛甲、茅ヶ崎市芹沢、綾瀬、二宮、大磯、秦野市戸川、厚木市下依知、南足柄市内山で観察されたと伝えるとともに、各地で採集された歌詞を収録。現泉区の和泉および中田地区については15編を掲載しており、その中には、「わたしとあなたは 門なら扉 朝にわかれて 夜にあう」、「としは十六 ささげの歳よ 誰に摘ましよか 初なりを」などの詞型に則ったものと並び、「あの子 前掛け ねずみに染めて あの子ちゃんを 猫にしてとらせたい」というものも見られる。同書はさらに、江戸期におけるこの種の踊りを伝える資料として柳亭種彦による文政6年(1826年)刊の『還魂紙料』を挙げ、踊りの様子を描写する「ここに七つ八つばかりなる子姫たち、美しく出立ち、太鼓を手ごとに持ちつれ、おもしろく歌をうたひ踊まはるも、みな是七夕をなぐさむること、今に怠らずとかや」、「村にもあれ、町にもあれ、他所へ行きて踊るを、踊をかくると言い、かけられたる所より、また此方へ来て踊るをかえすといふ。これは少女のみにあらず。男子にもこのことあり。」ほかの記述を引用している。これら踊りの起源について『神奈川県民俗芸能誌 増補改訂版』は、仏教でいう盂蘭盆とは無関係で盆踊りとは異質のものであり、「江戸時代以前から全国に存在した七夕踊の流れと、江戸初期の寛永正保(1624-47)頃に盛んだった小町踊が合流したもの」と位置づけたうえで、折口信夫の著述を引きつつ、「女性が処女としての物忌み生活をした遺風」であると解釈している。『厚木市史民俗篇2』は、『還魂紙料』中「七夕踊」の項の挿絵について、正保年間(1644-47年)の画巻にみる七夕踊りの図に基づくものであると指摘。また本文にある「一五、六歳の少女が盆を待ちかねて、七月七日の七夕から美しく化粧して、太鼓を敲き小歌を歌って歩く。小町は昔から美人のことであるからこの名があるという。額に紅の鉢巻き、女帯を二つ折りにした襷を左肩から右脇へ結び下す。小女郎よろしく日傘を掛けさせ、房を付けた丸団扇を持ち、あるいは美しい扇などで扇がれて面白く唄を歌い、小路毎の友達の家へ行き踊りを踊る。太鼓の拍子は、踊りの間に入れるのは八つ拍子で、道を行くときは五つ拍子で」との旨の記述を紹介。さらに『厚木読物民俗誌』を引きつつ、厚木市域の盆唄では、「川や村境を挟んで、互いに相手の悪口を言い合いながら歌い合った(ウタイックラ)掛合いが普通であった」とし、参加者は娘のみと男女の双方があり、娘のみの場合、若い衆がからかいにやって来、また、昼と夜とで参加者の年齢に開きがあった旨を伝える。そして『演劇百科事典』に拠りつつ、踊り掛けられたら踊り返すという掛け踊りの背後に、このような行為によって厄神を送るとの意味合いがあったと指摘したうえで、これらの踊りが、「近世初頭の七夕踊りの一つである小町踊りの遺風を伝えるとともに、盆唄はその詞から中世に源流を持つといえるようだ」と推察している。 当地の伝説を含む踊る猫の話と「猫騒動物」と呼ばれる歌舞伎作品との関係を考察した研究がある。北東にランドマークタワーも遠望できる踊場地区は現在、戸塚高校への通学路となっており、登下校の生徒でにぎわう。
※この「踊場」の解説は、「汲沢」の解説の一部です。
「踊場」を含む「汲沢」の記事については、「汲沢」の概要を参照ください。
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