踊・大窪・財部方面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
横川方面が征討軍に制圧されてしまったため、7月1日、薩軍の雷撃隊六・八・十・十三番中隊、干城隊一・三・五・七・九番中隊、正義隊四番中隊等の諸隊は踊に退却し、陣をこの地に敷いた。征討軍は6日、国分に進入して背後より踊の薩軍を攻撃し、薩軍は大窪に退却した。薩軍は襲山の桂坂・妻屋坂を守備すべく、干城隊七番中隊などを向かわせ、その他の諸隊に築塁の準備をさせたが、踊街道から征討軍が進出しているとの情報を受け、正義隊四番・雷撃隊十三番・干城隊一番隊・雷撃隊八番隊がこれを防いだ。また、征討軍は襲山街道からも攻めてきたため、干城隊三・七番隊、雷撃隊六番隊がこれを防いだが、決着はつかず両軍は兵を退いた。ここで征討軍は第二旅団全軍をもって大窪の薩軍を攻めた。 12日、辺見は赤坂の征討軍の牙城を攻撃するため、雷撃隊を率いて財部の大河内に進撃。この地は左右に山があり、中央に広野が広がっているという地形となっており、征討軍はその地形に沿う形で陣を敷いていたため、薩軍は左右翼に分かれて山道から征討軍を奇襲し優位に立ったが、雨が降り進退の自由を失い、あと一歩のところで兵を引き揚げた。 17日、辺見は奇兵隊を率いてきた別府九郎と本営の伝令使としてやってきた河野主一郎らと合流し、荒磯野の征討軍を攻撃するため兵を本道・左右翼に分け、夜明けに高野を出発した。辺見らの諸隊は征討軍に対し善戦するが、河野が本営に帰還するよう命じられたことによる右翼の指揮官の不在と征討軍の援軍の参戦、弾薬の不足により、雷撃隊は高野へ、奇兵隊は庄内へとそれぞれ退却した。19日には都城危急の知らせにより高野の雷撃隊は庄内へ移動し守りを固めた。また辺見は23日の岩川攻撃作戦のために雷撃六番隊、干城七番を率いて岩川へ向かった。
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