大喜利メンバーとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:46 UTC 版)
著書『笑点絵日記』でも記されている通り、たい平は子供の頃から『笑点』の大ファンだった。 演芸コーナーで若手大喜利が行われた時代から出演していたメンバーでもある。1998年7月に山田隆夫が4週間休んだ際、大喜利下克上(若手大喜利)にてMVPに選ばれ、1週のみ(第1623回の7月12日)山田の代わりに座布団運びを務め、師匠のこん平と師弟での共演を果たした。その後1999年の正月特番で行われた師弟大喜利でも、師弟での共演が実現。『笑点Jr.』にも、『BS笑点』時代から出演していた。 先述通り、2004年12月26日放送分よりこん平の代役として、若手大喜利から選抜されて大喜利に出演。初出演の挨拶では緊張のあまり、「たい平で〜す」と言うべきところを「こん平で〜す」と言ってしまった。当初は「復帰まで師匠の座席を死守しなければ」という思いで臨んでいたが、後にこん平が番組を降板することとなり、2006年5月21日放送分からこん平の後任として正式なメンバーに昇格した。 2005年6月12日放送分で5代目圓楽に自分の名前を忘れられたことがあり、その後このネタがたい平の冒頭の挨拶や大喜利のネタなどで使われるようになった。5代目圓楽はたい平の「外国人パブ」「モノマネ」など『BS笑点』時代からの持ちネタを試行錯誤の末に確立させたことについて、「独自の芸風を確立してよくなってますね」と評価していた(笑点の40周年記念ムック本)。 4代目司会者の5代目圓楽が療養のため休演した際、大喜利メンバーが週交代で代理司会を担当していた(2005年11月27日放送分以降は歌丸で固定)が、「自分は、(当時は)あくまで師匠・こん平の代理として出演していており、師匠を差し置いて司会を務めることは出来ない」という本人の意向により、当時の大喜利メンバーの中でたい平のみが司会を務めなかった。レギュラーメンバー昇格後の2008年6月29日放送分で歌丸が一時休演した際に、初めて大喜利の代理司会を務めた。本人はこの時、「ターボが回転しすぎて、収録後に鼻血が出た」と語っている(笑点オフィシャル本より)。後に歌丸が休演した2015年2月1日と同年8月16日放送分においても代理司会を担当した。 2010年の正月特番では、「親子大喜利」コーナーで次男とペアを組んだ。また11月に行われた甥の結婚披露宴では、新郎新婦を祝福する挨拶をシャレを交えて行っている。 歌丸が正式な司会に就任後「(回答形式で必要な物以外の)歌・ものまね禁止」と述べているが、その発端は大概たい平である。 以前は師匠のこん平の流れで「山田降ろしネタ」などが多く、5代目圓楽司会時には山田に突き飛ばされたり、座布団をすべて没収されていたが、歌丸・昇太が司会を務めてからは、報復こそされるものの山田が没収した分+1枚(時には2枚以上)を獲得することが多い。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}最近は[いつ?]三遊亭小遊三との地元罵倒合戦(大月秩父代理戦争)や恐妻家ネタ、「秩父○○祭り」、6代目圓楽とのブラック団ネタ(お互い自分の師匠に対して毒を盛って現在の笑点の利権を得た)、など他のメンバーとの絡みも多くなっている。ほか、「花火」のものまねのような、アクションの派手なギャグも得意としている が、たいていこれらのネタを披露すると座布団を2枚以上から全部、時には他のメンバーまでも巻き込んで剥奪されるのが定番となっている。『秩父たい平カレー』を発売(発表)してからは、木久扇(『木久蔵ラーメン』や『木久扇ナポリタン』など)と互いの商品を罵倒し合うことが多くなっている。また、その時々の流行 や政治・経済を取り上げる社会派ネタも行っている 司会者である春風亭昇太が未婚時代の時は未婚ネタを使っていたが、2019年に昇太が結婚してからは「何かあったんのか劇場」で離婚秒読みなどをネタにしている。 2004年にこん平の代理としてメンバー入りしてから、こん平が座っていた一番右端の6枠に18年の長きに渡って座っていたが、2022年に桂宮治が加入したのに伴い、既存メンバーの席替えも30年振りに行われ、林家木久扇が座っていた3枠に移動した。
※この「大喜利メンバーとして」の解説は、「林家たい平」の解説の一部です。
「大喜利メンバーとして」を含む「林家たい平」の記事については、「林家たい平」の概要を参照ください。
大喜利メンバーとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 23:30 UTC 版)
『笑点』には1967年10月放送の「若手大喜利」で初出演。1969年11月からメンバーとして出演しており、2016年5月には番組を勇退した桂歌丸に代わり最古参・最年長の大喜利メンバーとなった。回答者としての出演期間は、2019年11月9日で50周年を迎え、歴代メンバーの中では最も長く出演している。 大喜利メンバーに入った当初、特徴が無かった木久扇は自分をどうキャラ付けしようか迷っていたが、ある日TVで流れていた嵐寛寿郎の出演するチャンバラ映画を見たのを思い出し、大喜利の回答で鞍馬天狗になりきって「杉作、日本の夜明けは近い」と話したら、これが見事にハマった。そこから目覚めて、時代劇言葉で返すようになって、自身のキャラクターが確立していった。しかし実は鞍馬天狗には原作にも映画にも「杉作……」などというフレーズは出て来ず、木久扇の創作である。それがのちに、木久扇が扮する鞍馬天狗でCMが作られ、賞を受けた。 大喜利で歌を歌うのも木久扇の特徴である。昔からミュージカルが好きであった木久扇は、植木等や榎本健一のようにセリフの合間に歌を盛り込んだら会場も盛り上がるだろうと考え、自身以前にはいなかった歌を歌う大喜利メンバーとなった。 木久扇の持ちネタの落語『林家彦六伝(明るい選挙)』にも出て来るが、木久扇の『笑点』起用は初代司会者7代目立川談志が推薦したことが大きく影響している(現在のキャラクター「与太郎」についても同様である)。その一方、時折与太郎キャラと大きく異なる回答(社会風刺・反戦・メンバー罵倒など)を出して驚かせることもあり、先述の司会者によるフォローも、こうした回答を受けてから発せられることが多かった。自身が襲名の後見を勤めた林家三平が加入して以降は、三平に対して説教やダメ出しをする事が多い。 色紋付の復活当初は「一番目立つ色」という理由で赤い色紋付を着用していたが、1年ほどですぐに黄色に変わりそのまま現在まで至る。 番組内で多用している「やぁねぇ」 の駄洒落から、屋根の発展に貢献したとして2004年(平成16年)に神奈川県瓦屋屋根工業連合会の名誉総裁に任命された。 時代劇への造詣の深さから、嵐寛寿郎が『笑点』の「伸介のなんでもコーナー」(1975年7月6日放送)にゲスト出演した際に共演している。また、演芸コーナーで時代劇コントグループカンカラが出演する場合、ゲストで出演することもある。 「いやんばか〜ん・・・・」は、1978年4月12日にレコード化(原曲はジャズナンバーの「セントルイス・ブルース」)されており、振付師の真島茂樹が考案したこの歌への新しい振り付けを2005年10月22日放送の「BS笑点」にて初披露、2006年1月1日放送の「大笑点」では「いやん、ばか〜ん、ツー」と紹介された。 50年間メンバーとして出演していることから、それに触れる際に「司会者を5人送っている」とネタにする事が多い。 80代を迎え、近年では「高齢になり、家への帰り道が分からない」といった認知症キャラクターも演じることもある。 1986年から長年3枠に座っていたが、2022年に桂宮治が加入したのに伴い、既存メンバーの席替えが30年振りに行われ、木久扇は4枠に移動した。また、1992年から長年2枠で木久扇の隣に座っていた弟弟子の好楽も5枠に移動したため、引き続き好楽とは隣同士で座ることになった。 少年時代に東京大空襲を経験している事もあり、世界平和を願う回答をする事もしばしばである。
※この「大喜利メンバーとして」の解説は、「林家木久扇」の解説の一部です。
「大喜利メンバーとして」を含む「林家木久扇」の記事については、「林家木久扇」の概要を参照ください。
大喜利メンバーとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 22:53 UTC 版)
「三遊亭小遊三」の記事における「大喜利メンバーとして」の解説
三遊亭好楽の後任として1983年10月16日放送分より加入。当時は古今亭朝次(現:7代目桂才賀)が自身と同じ色男キャラで売っていたことから、小遊三と才賀が隣同士となった1986年1月5日放送分から才賀が降板した1988年3月27日放送分まで才賀と罵倒合戦を演じていた。1988年4月3日放送分より才賀の後任としてメンバーに復帰した好楽とは2022年1月16日放送分まで長らく席が隣同士となり、好楽との掛け合いを繰り広げていた。 加入の話を持ちかけられた際にはドッキリではないかと疑い、本人の心境は「ウィーン少年合唱団の中に音痴がひとり、ポンと放り込まれたようなもん」だった。それでも大喜利メンバーは同じ噺家だからという甘えがあったと本人は後年振り返っているが、プロデューサーだけは怖く、収録後にダメ出しを喰らったり、酒を飲みに行けば番組作りに対する思いを一晩中聞かされたりした。そんな中助け舟を出してくれたのは番組の先輩である林家こん平だった。新米の頃は席が当時の司会者の5代目三遊亭圓楽のすぐ近くの1枠だったことから緊迫感を覚えていたが、歳を重ねるごとに性格が丸くなる圓楽を見て「世の中にはこれほどおもしろい人がいるのか」と印象を改めた。 2008年からは林家たい平と互いの地元をネタにした罵倒合戦(大月秩父代理戦争)を繰り広げている。2010年6月6日に大月市で、さらに同年10月24日には「第2弾」として秩父市で、大月市長・石井由己雄と秩父市長・久喜邦康(いずれも当時)も交えたトークバトルが行われたほか、これ以降もたい平・小遊三による二人会を頻繁に実施している。昇太が司会に就任して以降は更に大月市をフランスのパリと主張する答えが多くなり、冒頭の挨拶で自身を「フランス系日本人」と称する。「大月の朝食はカプチーノとクロワッサン」「大月はフランス領」、大月の街をパリの名所(「セーヌ川」「シャンゼリゼ通り」等)に例えるなどの回答を行っている。 メンバーの中で最も下ネタを発することが多い。このため、司会者や他のメンバーから「変態」扱いされており、司会者からは回答の後に座布団を没収されることが多く、落語芸術協会副会長就任後は「便所でお尻を拭く会長」なるギャグも使っていた。他には、自分を反町隆史、木村拓哉、ペ・ヨンジュン、福山雅治、アラン・ドロンやジョニー・デップなど様々な二枚目の有名人に例えるナルシストネタ、深川通り魔殺人事件の犯人に顔が似ている事から始めた泥棒・刑務所・手錠・食い逃げ・駅前の自転車窃盗などの犯罪者ネタ、自動販売機の釣銭拾いネタ、銀杏拾いネタ、雑誌の袋とじネタなども定番となっている(本人曰く「すき間産業」)。 5代目圓楽や桂歌丸など歴代の大喜利司会者が司会を勇退する際、「抱いてください」という誘い文句を言うことがあった(なお、後者の歌丸が最後の大喜利司会を務めた2016年5月22日の生放送ではこの発言に歌丸がおののき、小遊三のみならずメンバー全員の座布団が問答無用で全て没収される事態に至った)。 2020年3月15日放送分の「大喜利」にて司会者の昇太に支えられながら登場し、2月11日に「げた骨折」(右中足骨骨折)をしていたことを告白した。当時座布団は6枚あったが、面白いネタを披露しても「いらない」と言って拒否するほどで、座布団の増減はなかった。その後の放送では後方に座布団を積み上げるという特殊形式で対応し、同年4月の放送からは元の形式に戻っている。 2022年に桂宮治が大喜利メンバーに加入したことに伴い、1992年に自身と好楽の席を交換した以来の既存メンバーの席替えも30年振りに行われたが、小遊三は既存メンバーの中で唯一1枠のままで席の移動が無かった。
※この「大喜利メンバーとして」の解説は、「三遊亭小遊三」の解説の一部です。
「大喜利メンバーとして」を含む「三遊亭小遊三」の記事については、「三遊亭小遊三」の概要を参照ください。
大喜利メンバーとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 13:47 UTC 版)
先述通り1979年9月9日放送分よりメンバーに加入し、1983年10月9日放送分をもって古典落語の修業に専念するため一旦降板。1988年4月3日放送分より番組に復帰し、4年半のブランクを経て30年近くに亘り出演している。好楽(当時・九蔵)を笑点に誘ったのは、後に師匠となる5代目三遊亭圓楽である。『笑点』40周年を記念して発売したオフィシャル本では、『笑点』の前身番組『金曜夜席』のファンだったことから、いずれは『笑点』に出演したいと勝手に思い込んでいたと語っている。 番組ではピンク色の色紋付を着用している。大正製薬の便秘薬『コーラック』と『好楽(コウラク)』の語呂が似ていることから、製品のキャッチフレーズ「ピンクの小粒コーラック」をもじり、「ピンクの小粒好楽(コウラク)』と称されることもしばしばある。但し、1980年11月から1983年10月の一時降板までは水色の紋付を着用していた。当初は『笑点』以外ではピンクの紋付を着ず、日本テレビの社長や自身のマネージャーからの指示でピンク色の着物を作っても1年ほど頑なに着ようとしなかったが、東日本大震災の被災地である陸前高田の小学校に行ったときに小学生たちが「ピンクの好楽さんが来た!」と喜んでくれたため、以来『笑点』以外でもピンクの紋付を着るようになった。 復帰した当初は司会席のすぐ隣の1枠に座っていたが、自身の師匠でもある当時の司会者5代目圓楽への遠慮が見られたため、スタッフの判断により1992年4月に当時2枠だった小遊三と席を入れ替えた。その後、大喜利における既存メンバーの席替えは、2022年1月に桂宮治が加入するまで30年間行われなかった。また、この席替えによって長年3枠に座る林家木久扇と兄弟弟子同士で並ぶこととなり、2022年の宮治加入に伴う席替えでも木久扇が4枠、好楽が5枠となったため、席替え後も前後の入れ替えはあったが木久扇とは引き続き隣同士となっている。 九蔵時代は木久扇(当時・木久蔵)の弟弟子として「与太郎その2」的な役割で若く元気な印象が強かったが、5代目圓楽一門への移籍を機に落ち着いたキャラクター転換し、メンバーの中で一歩引いたポジションに収まっており、冒頭の挨拶は自作の川柳を詠んで締めるのが恒例だった。 桂歌丸司会就任後は「仕事がない(または「スケジュール帳が真っ白」、「暇」)」、「歌が上手に歌えない」、「貧乏(お金がない)」、「ケチ(勘定の値引き交渉をする)」、「落語がうろ覚え」、「弟子や後輩に追い抜かれる(弟子に破門される)」、「答えが滑る」などといった、やや情けないキャラクター性を打ち出している。「仕事がない」に関しては、特に6代目円楽からからかい半分で言われることが多いが、自虐で使用することがある。 「歌が上手に歌えない」は往年のヒット曲を歌おうとするが、歌詞が出てこず「ラララ…」でごまかすというパターンの回答であり、座布団を没収されることもしばしばある。 歌丸が司会だった頃は「次期司会者は自分」などと、野心見え見えの回答をして大量没収されることもあった。 6代目円楽を中心に、メンバーからは「プロなのに素人落語コンクールに出場」「眠たくなるのは木久扇と好楽の落語」などと貶されることが多い。 6代目三遊亭円楽(旧名・楽太郎)とは、円楽襲名争いをしているという笑点でのネタが存在するが、この中で、好楽が白円楽などと呼ばれることがある。これは楽太郎が6代目円楽を襲名する以前より、腹黒キャラで黒円楽と呼ばれていたことに対をなすことや、歌丸罵倒をした6代目円楽(楽太郎)を悪いやつだと非難する善人キャラで白である、好楽自身が暇でスケジュール帳が真っ白、という意味も含まれている。 三遊亭小遊三を筆頭に、他メンバーからネタにされると「よせよ!」と返すことが多い。現在はその「よせよ!」が半ばトレードマークになっており、満を持して「よせよ!」を言うこともある。2017年の一時期は金の無心をしたのち、「ダメかー!」という嘆くような台詞を放つことが多かった。 自身に関するネタ以外でも、他のメンバーの回答に対して鋭いツッコミを入れるケースがある。 回答した後に斜になってカメラ目線を決め込む、いわゆる「どや顔」をレイザーラモンRGがモノマネのレパートリーとしている(RGの相方であるHGのコスプレが座布団10枚の賞品になったことがあり、好楽が獲得している)。昇太司会後は顔と目線をやや斜め上にあげる仕草が追加された(新真打披露口上でもこの動作をしている)。 2014年11月16日放送の『笑点』(日本テレビ)第2440回で座布団10枚を獲得した際、日本テレビ放送網株式会社の小杉善信取締役専務執行役員から、家族、弟子といった一門をも対象者に含む、限度額無制限で有効期限が「死ぬまで」の「日テレ社員食堂利用カード」が贈呈された。この収録の翌日には、このカードを持って息子で弟弟子でもある王楽を含む家族や一門弟子(孫弟子を含む)の合計30名で日テレの社員食堂へ食事に出かけたことが、翌週の『笑点』第2441回の大喜利の前に放送された。このカードはあくまでも番組のネタであり、カードと言っても横1mほどの巨大なレプリカ風の物で、それ以降は日テレが保管しているためカードの使用はその1回のみ(持参しないと無効)だった。 一度だけ、当時司会の5代目圓楽から破門を宣告された事がある。ある日『笑点』の収録前の楽屋にて、「大喜利」での好楽の挨拶を聞いた圓楽が激怒して猛批判し、「今すぐ(落語家を)辞めちまえ!」と叫んだ。好楽は荷物をまとめて楽屋を飛び出した。心配したスタッフが好楽を見つけて楽屋に戻るよう励ましたが、好楽はいじけて戻ろうとしなかった。この一連の遣り取りを見かねた歌丸が自分の顔に免じて好楽を許してあげるように圓楽を説得し、圓楽も少し考えた末好楽を呼んでくるように指示。好楽は楽屋に戻って圓楽に謝罪。しかし、圓楽は「おまえが頭を下げるのは俺じゃない。歌さんにだ。お前は幸せ者だよ」と言い、和解した。それから2人は何事も無かったかのように「大喜利」の収録に臨んだ。 ギャンブル好きのギャンブラーキャラであり、大型連休などで子供を旅行に連れて行くや家族旅行に行くという出題がされると、高確率で競馬場など公営競技場に行くという回答が出る。
※この「大喜利メンバーとして」の解説は、「三遊亭好楽」の解説の一部です。
「大喜利メンバーとして」を含む「三遊亭好楽」の記事については、「三遊亭好楽」の概要を参照ください。
- 大喜利メンバーとしてのページへのリンク