戦後~晩年とは? わかりやすく解説

戦後~晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:21 UTC 版)

近衛秀麿」の記事における「戦後~晩年」の解説

帰国した秀麿は、40代半ばにしてすでに日本の指揮者界の長老となっていた。1946年からは、上田仁とともに東宝肝いり創設され東宝交響楽団東響)の常任指揮者となる。東響では、上田現代ものを、秀麿が古典派ロマン派作品指揮するよう役割決められていた。 1948年より日本芸術院会員となった秀麿は、1949年知り合い楽員集め学校での音楽教室主眼とする「エオリアン・クラブ」を結成した1950年東宝東宝争議経て東響縁切りするにあたり、秀麿は東響半ば追放同然のように去った。 エオリアン・クラブでの活動本腰を置くようになった秀麿は、1952年、このクラブ発展させ、第一生命後援を受け、近衞管弦楽団(近響)に改組する。アルバイト奏者として近響に短期間在籍したことのある岩城宏之によれば、秀麿邸はオーケストラすっぽり入れるほど大きかったという。第一生命や、当時第一生命主要株主であったラジオ東京支援大きく効いたが、第一生命当局指示により、のちに近響のスポンサー降りたその後、秀麿は、当時日本フィルハーモニー交響楽団日本フィル)の専属オーケストラ化を計画していた文化放送対し、近響を日本フィル中核にするよう申し入れるが、文化放送社長水野成夫横槍もあり、結局秀麿だけが除け者にされる結果終わった晩年には日本フィルとの関係も好転し1969年から70年音源映像には現在でも接することが出来る。 次に秀麿は、近響の演奏会CBC中部日本放送ともども支援してきたABC(朝日放送)に契約持ちかけ、近響は1956年、ABC交響楽団(ABC響)に改組する。しかしながらABC響の活動は順調とは言えず、待遇面で不満を持ったヴォルフガング・シュタフォンハーゲンら主だった楽員別のオーケストラ「インペリアル・フィルハーモニー」を結成したりもし、ABC響崩壊危機の原因にもなった。 そういった中、1960年秋にはABC響のヨーロッパ演奏旅行挙行され、秀麿も指揮者として渡欧することとなった同時期には、かつて自分トップ君臨していたN響世界一周旅行計画しており、秀麿はN響若手メイン構成されていたことを危惧し「あれが日本トップ団体思われては困る」という趣旨発言をするなど余裕すら見せていたが、ABC響の演奏旅行プロモーター逃げられたり、そのために資金が底をつき楽員一部ローマで立ち往生し大使館あっせんオリンピック選手跡地施設宿泊)、年を越して帰国するなど、大成功N響とは裏腹に無残な結果となった演奏そのもの高く、秀麿もヨーロッパ旧友再会するなど良い事もそれなりにあったが、一連のゴタゴタ騒ぎはABC響の息の根を止めるには十分であった。なおABC響の名義受け継ぐ者があり、1960年代半ばまでバレエ公演などに使用されていた。 ABC響の消滅以後、秀麿は再びフリー指揮者になり、読売日本交響楽団大阪フィルハーモニー交響楽団、さらに京都大学交響楽団などプロ・アマ問わず多くオーケストラ指揮した1967年にはN響の第484回、第485回定期演奏会出演。翌1968年にはN響とともに明治百年記念式典」に出席したこの年7月には民社党から参議院議員選挙立候補京都地方区)したが落選次点)している。息子の秀健の証言によると「僕は断固反対したんですよ。だけど親父は、公認料欲しかったんです」という。なお、この時期読売日本交響楽団指揮したベートーヴェンシューベルトスメタナドヴォルザークなどの作品録音しており、現在CD化されている。 また、これに先立つ1966年には音楽学校設立に関する手形詐欺事件巻き込まれ金融業者から手形をだまし取られた上に京都地裁訴えられ1966年9月30日京都地裁6000万円損害賠償命じられた上、1967年には大阪地検特捜部から1000万の手詐欺容疑任意出頭求められ最終的に800万円負債清算するため東京赤坂自宅手放すことを余儀なくされるなど苦難の連続でもあった。1969年には創設されたばかり日本フルトヴェングラー協会から会長就任懇願され、引き受け講演行っている。この講演は、協会CDとして聞くことができる。 晩年演奏活動としては、1970年初来日したオーボエ奏者ハインツ・ホリガー伴奏日本フィル)を行なっており、ダリウス・ミヨーオーボエ協奏曲はこの時が日本初であった1973年6月2日前日から世田谷区野毛新居就寝中に脳内出血起こし急死した74歳没。秀麿が電話出たら突然ヤクザのような男から「ばかやろう」とどなりつけられ、そのショック死んだとのうわさもささやかれた。墓所東京都練馬区桜台広徳寺オーケストラ運営は、自腹インフラ整備をしたにもかかわらず困難と失敗の連続であったが、亡くなる直前まで指揮活動後進の指導にあたり晩年不遇な事項別にすれば、「おやかた」の愛称にふさわしい活動繰り広げた。 秀麿の没後行なわれ追悼演奏会では、前年分裂した日本フィル日本フィルハーモニー交響楽団)」と「新日本フィル新日本フィルハーモニー交響楽団)」双方楽員が、立場超えて共に演奏した最初機会であり、これも秀麿の人徳あっての出来事として記憶されている。

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戦後、晩年

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金田一京助」の記事における「戦後、晩年」の解説

戦後三省堂新し教科書指定あわせて国語教科書をつくるにあたり京助春彦親子執筆依頼した三省堂中等国語 金田一京助編』いわゆる中金』は発刊後から10数年わたって採択トップとなり、国語教科書の代表となった晩年京助金成マツ他から筆録したユーカラノート和訳注解仕事専念していた。これらは1959年昭和34年)から『アイヌ叙事詩ユーカラ集』として刊行された。(9巻訳注中に死去1969年昭和44年春彦購入した本郷マンション移り住む1971年昭和46年8月ごろから床に就くことが増え11月7日容態悪化14日午後8時30分老衰による動脈硬化気管支肺炎のため永眠享年90(満89歳没)。15日喜福寺通夜16日密葬23日青山葬儀場三省堂社葬として告別式が行われた。葬儀委員長亀井要社長弔辞文部大臣高見三郎日本学士院院長南原繁などが故人功績称え大学マスコミから俳優政治家まで弔花寄せるなど、学者葬儀としては盛大なのだった

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戦後・晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 07:22 UTC 版)

伊達里子」の記事における「戦後・晩年」の解説

戦時中から戦後まで東京都世田谷区成城居住1951年日系アメリカ人小説家田崎結婚し神奈川県中央林間転居新東宝チャッカリ夫人とウッカリ夫人』を最後に映画界引退その後離婚し洗礼を受けカトリック教徒になる。洗礼名マリア1972年10月23日肺ガンのため港区白金台東京大学医科学研究所付属病院にて死去葬儀上大崎の聖アンセルモ目黒教会にて執り行われた。

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戦後・晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:40 UTC 版)

伊藤久男」の記事における「戦後・晩年」の解説

終戦直後は、戦時歌謡多く歌った責任感から疎開先に引きこもり酒に溺れ再起不能とも言われたが、1947年昭和22年)の松竹映画地獄の顔」(マキノ雅弘監督)の主題歌夜更けの街」でカムバックその後は、「シベリヤ・エレジー」「イヨマンテの夜」「あざみの歌」「山のけむり」「君いとしき人よ」「数寄屋橋エレジー」「ひめゆりの塔」など様々なジャンルヒット飛ばした殊にラジオ歌謡においては詩情豊かな抒情歌多く、「たそがれの夢」は本人もかなり気に入って晩年まで愛唱していた。 日本歌手協会設立尽力し後進の指導にも力を惜しまなかった。 NHK紅白歌合戦に計11出場している(詳細下記参照)。 1978年昭和53年)に紫綬褒章受章1982年昭和57年)には第24回日本レコード大賞特別賞を受ける。この受賞の際は中野区にある自宅からの中継顔出し出演。この当時日本レコード大賞制定委員だった古関裕而から直接受賞手渡されている。既にその顔貌はやつれ、歩行困難だったためか、終始立ち上がることは無く座ったままの表彰だった。結局伊藤公の場に姿を見せるのは、これが生涯最後となった。翌1983年4月25日肺水腫のため西武沼袋医院に於いて死去享年72勲四等旭日小綬章受勲。同27日通夜沼袋禅定院執り行われた。墓所故郷本宮石雲寺にある。

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戦後・晩年

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宮崎龍介」の記事における「戦後・晩年」の解説

龍介は戦後日本社会党結成参加して中央委員となるが間もなく離党戦時中の行動理由として公職追放となった1954年昭和29年)には憲法擁護国民連合結成参加して常任委員となり、1967年昭和42年)には代表委員選ばれ、また1956年昭和31年)には孫文活動顕彰する日本中山会を結成するなど、一貫して護憲運動日中友好協会常任理事となって中国との関係改善努めた。 『宮崎滔天全集』の刊行準備中であった1971年昭和46年1月23日、龍介は心筋梗塞により78歳没した。墓は神奈川県相模原市緑区顕鏡寺にある。法号は石老院大観竜光居士宮崎家長女継ぎ滔天全集も娘夫婦によって完成された。

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戦後・晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 01:32 UTC 版)

小穴喜一」の記事における「戦後・晩年」の解説

1949年昭和24年弁護士法改正され同年10月24日現行の長野県弁護士会設立された際、初代会長選ばれた。 晩年松本図書館協会図書館協会昭和42年3月解散)の前身)の理事として図書館活動にも参画した。 長野県弁護士会会長辞した頃から胃ガン罹患し名古屋大学教授であった長男進也勧めにより名大附属病院治療していったんは快復したものの、1953年昭和28年5月末に肝臓ガンにより名古屋大学附属病院入院同年6月18日死去した(満71歳没)。葬儀松本市蟻ケ崎正麟寺行われた法名天倫院法達眼居士貞享騒動加担して処刑され小穴善兵衛の子孫であるため、喜一家族の墓も善兵衛の墓のある通称いちょう堂の敷地内にある。これは、当初正麟寺にあった墓を長男進也がいちょう堂の小穴家の墓地移したのである

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戦後・晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 07:38 UTC 版)

坂田祐」の記事における「戦後・晩年」の解説

戦後復興尽力し1949年昭和24年4月新制大学経済学部工学部)が設立され8月理事長退任し10月大学長に就任し1954年昭和29年4月まで在任した1959年昭和34年12月学校法人関東学院理事長就任し1968年昭和43年3月まで在任した1965年昭和40年3月院長辞任し名誉院長となった1969年12月16日老衰のため死去し三ツ沢墓地葬られた。

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