戦後~晩年
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帰国した秀麿は、40代半ばにしてすでに日本の指揮者界の長老格となっていた。1946年からは、上田仁とともに東宝の肝いりで創設された東宝交響楽団(東響)の常任指揮者となる。東響では、上田が現代ものを、秀麿が古典派やロマン派の作品を指揮するよう役割が決められていた。 1948年より日本芸術院会員となった秀麿は、1949年、知り合いの楽員を集め、学校での音楽教室を主眼とする「エオリアン・クラブ」を結成した。1950年、東宝が東宝争議を経て東響を縁切りするにあたり、秀麿は東響を半ば追放同然のように去った。 エオリアン・クラブでの活動に本腰を置くようになった秀麿は、1952年、このクラブを発展させ、第一生命の後援を受け、近衞管弦楽団(近響)に改組する。アルバイト奏者として近響に短期間在籍したことのある岩城宏之によれば、秀麿邸はオーケストラがすっぽり入れるほど大きかったという。第一生命や、当時第一生命が主要株主であったラジオ東京の支援も大きく効いたが、第一生命が当局の指示により、のちに近響のスポンサーを降りた。 その後、秀麿は、当時日本フィルハーモニー交響楽団(日本フィル)の専属オーケストラ化を計画していた文化放送に対し、近響を日本フィルの中核にするよう申し入れるが、文化放送社長水野成夫の横槍もあり、結局秀麿だけが除け者にされる結果に終わった。晩年には日本フィルとの関係も好転し、1969年から70年の音源と映像には現在でも接することが出来る。 次に秀麿は、近響の演奏会をCBC(中部日本放送)ともども支援してきたABC(朝日放送)に契約を持ちかけ、近響は1956年、ABC交響楽団(ABC響)に改組する。しかしながらABC響の活動は順調とは言えず、待遇面で不満を持ったヴォルフガング・シュタフォンハーゲンら主だった楽員が別のオーケストラ「インペリアル・フィルハーモニー」を結成したりもし、ABC響崩壊の危機の原因にもなった。 そういった中、1960年秋にはABC響のヨーロッパ演奏旅行が挙行され、秀麿も指揮者として渡欧することとなった。同時期には、かつて自分がトップに君臨していたN響も世界一周旅行を計画しており、秀麿はN響が若手メインで構成されていたことを危惧し「あれが日本のトップ団体と思われては困る」という趣旨の発言をするなど余裕すら見せていたが、ABC響の演奏旅行はプロモーターに逃げられたり、そのために資金が底をつき楽員の一部がローマで立ち往生し(大使館のあっせんでオリンピック選手村跡地の施設に宿泊)、年を越して帰国するなど、大成功のN響とは裏腹に無残な結果となった。演奏評そのものは高く、秀麿もヨーロッパの旧友と再会するなど良い事もそれなりにあったが、一連のゴタゴタ騒ぎはABC響の息の根を止めるには十分であった。なおABC響の名義は受け継ぐ者があり、1960年代半ばまでバレエ公演などに使用されていた。 ABC響の消滅以後、秀麿は再びフリーの指揮者になり、読売日本交響楽団や大阪フィルハーモニー交響楽団、さらに京都大学交響楽団などプロ・アマ問わず多くのオーケストラを指揮した。1967年にはN響の第484回、第485回定期演奏会に出演。翌1968年にはN響とともに「明治百年記念式典」に出席した。この年の7月には民社党から参議院議員選挙に立候補(京都地方区)したが落選(次点)している。息子の秀健の証言によると「僕は断固反対したんですよ。だけど親父は、公認料が欲しかったんです」という。なお、この時期に読売日本交響楽団を指揮したベートーヴェン、シューベルト、スメタナ、ドヴォルザークなどの作品を録音しており、現在CD化されている。 また、これに先立つ1966年には音楽学校設立に関する手形詐欺事件に巻き込まれ、金融業者から手形をだまし取られた上に京都地裁に訴えられ、1966年9月30日、京都地裁で6000万円の損害賠償を命じられた上、1967年には大阪地検特捜部から1000万円の手形詐欺容疑で任意出頭を求められ、最終的に800万円の負債を清算するため東京赤坂の自宅を手放すことを余儀なくされるなど苦難の連続でもあった。1969年には創設されたばかりの日本フルトヴェングラー協会から会長就任を懇願され、引き受け講演も行っている。この講演は、協会盤CDとして聞くことができる。 晩年の演奏活動としては、1970年に初来日したオーボエ奏者ハインツ・ホリガーの伴奏(日本フィル)を行なっており、ダリウス・ミヨーのオーボエ協奏曲はこの時が日本初演であった。 1973年6月2日、前日から世田谷区野毛の新居で就寝中に脳内出血を起こし急死した。74歳没。秀麿が電話に出たら突然ヤクザのような男から「ばかやろう」とどなりつけられ、そのショックで死んだとのうわさもささやかれた。墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺。 オーケストラの運営は、自腹でインフラ整備をしたにもかかわらず困難と失敗の連続であったが、亡くなる直前まで指揮活動や後進の指導にあたり、晩年の不遇な事項を別にすれば、「おやかた」の愛称にふさわしい活動を繰り広げた。 秀麿の没後に行なわれた追悼演奏会では、前年に分裂した「日本フィル(日本フィルハーモニー交響楽団)」と「新日本フィル(新日本フィルハーモニー交響楽団)」双方の楽員が、立場を超えて共に演奏した最初の機会であり、これも秀麿の人徳あっての出来事として記憶されている。
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戦後、晩年
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戦後、三省堂は新しい教科書指定にあわせて国語の教科書をつくるにあたり、京助・春彦親子に執筆を依頼した。三省堂『中等国語 金田一京助編』いわゆる『中金』は発刊後から10数年にわたって採択数トップとなり、国語教科書の代表となった。 晩年の京助は金成マツ他から筆録したユーカラのノートの和訳注解の仕事に専念していた。これらは1959年(昭和34年)から『アイヌ叙事詩ユーカラ集』として刊行された。(9巻の訳注中に死去) 1969年(昭和44年)春彦が購入した本郷のマンションに移り住む。1971年(昭和46年)8月ごろから床に就くことが増え、11月7日朝容態が悪化。14日午後8時30分、老衰による動脈硬化と気管支肺炎のため永眠。享年90(満89歳没)。15日喜福寺で通夜。16日密葬。23日青山葬儀場で三省堂の社葬として告別式が行われた。葬儀委員長は亀井要社長、弔辞は文部大臣高見三郎、日本学士院院長南原繁などが故人の功績を称え、大学、マスコミから俳優、政治家まで弔花を寄せるなど、学者の葬儀としては盛大なものだった。
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戦後・晩年
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戦時中から戦後まで、東京都世田谷区の成城に居住。1951年、日系アメリカ人・小説家の田崎と結婚し、神奈川県の中央林間に転居。新東宝『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』を最後に映画界を引退。その後離婚し、洗礼を受けカトリック教徒になる。洗礼名はマリア。1972年10月23日、肺ガンのため港区白金台の東京大学医科学研究所付属病院にて死去。葬儀は上大崎の聖アンセルモ目黒教会にて執り行われた。
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戦後・晩年
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終戦直後は、戦時歌謡を多く歌った責任感から疎開先に引きこもり酒に溺れ、再起不能とも言われたが、1947年(昭和22年)の松竹映画「地獄の顔」(マキノ雅弘監督)の主題歌「夜更けの街」でカムバック。その後は、「シベリヤ・エレジー」「イヨマンテの夜」「あざみの歌」「山のけむり」「君いとしき人よ」「数寄屋橋エレジー」「ひめゆりの塔」など様々なジャンルでヒットを飛ばした。殊にラジオ歌謡においては詩情豊かな抒情歌が多く、「たそがれの夢」は本人もかなり気に入って、晩年まで愛唱していた。 日本歌手協会の設立に尽力し、後進の指導にも力を惜しまなかった。 NHK紅白歌合戦に計11回出場している(詳細は下記参照)。 1978年(昭和53年)に紫綬褒章受章、1982年(昭和57年)には第24回日本レコード大賞特別賞を受ける。この受賞の際は中野区にある自宅からの中継で顔出し出演。この当時、日本レコード大賞制定委員だった古関裕而から直接、受賞楯を手渡されている。既にその顔貌はやつれ、歩行が困難だったためか、終始立ち上がることは無く、座ったままの表彰だった。結局、伊藤が公の場に姿を見せるのは、これが生涯最後となった。翌1983年4月25日、肺水腫のため西武沼袋医院に於いて死去、享年72。勲四等旭日小綬章受勲。同27日、通夜は沼袋の禅定院で執り行われた。墓所は故郷本宮の石雲寺にある。
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戦後・晩年
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龍介は戦後、日本社会党の結成に参加して中央委員となるが間もなく離党、戦時中の行動を理由として公職追放となった。1954年(昭和29年)には憲法擁護国民連合の結成に参加して常任委員となり、1967年(昭和42年)には代表委員に選ばれ、また1956年(昭和31年)には孫文の活動を顕彰する日本中山会を結成するなど、一貫して護憲運動や日中友好協会の常任理事となって中国との関係改善に努めた。 『宮崎滔天全集』の刊行準備中であった1971年(昭和46年)1月23日、龍介は心筋梗塞により78歳で没した。墓は神奈川県相模原市緑区の顕鏡寺にある。法号は石老院大観竜光居士。宮崎家は長女の蕗苳が継ぎ、滔天全集も娘夫婦によって完成された。
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戦後・晩年
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1949年(昭和24年)弁護士法が改正され、同年10月24日、現行の長野県弁護士会が設立された際、初代の会長に選ばれた。 晩年、松本図書館協会(松筑図書館協会(昭和42年3月解散)の前身)の理事として図書館活動にも参画した。 長野県弁護士会会長を辞した頃から胃ガンに罹患し名古屋大学教授であった長男進也の勧めにより名大附属病院で治療していったんは快復したものの、1953年(昭和28年)5月末に肝臓ガンにより名古屋大学附属病院に入院。同年6月18日死去した(満71歳没)。葬儀は松本市蟻ケ崎の正麟寺で行われた。法名は天倫院法達眼清居士。貞享騒動に加担して処刑された小穴善兵衛の子孫であるため、喜一と家族の墓も善兵衛の墓のある通称いちょう堂の敷地内にある。これは、当初、正麟寺にあった墓を長男の進也がいちょう堂の小穴家の墓地に移したものである。
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戦後・晩年
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戦後の復興に尽力し、1949年(昭和24年)4月に新制大学(経済学部・工学部)が設立され、8月に理事長を退任し、10月に大学長に就任し1954年(昭和29年)4月まで在任した。1959年(昭和34年)12月に学校法人関東学院理事長に就任し1968年(昭和43年)3月まで在任した。1965年(昭和40年)3月に院長を辞任し名誉院長となった。1969年12月16日に老衰のため死去し、三ツ沢墓地に葬られた。
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