失意の戦後と幸せな晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 01:48 UTC 版)
戦後しばらくは夢を抱いて渡米するも、経済的に貧窮し、健康にも恵まれずに帰国するなど失意の日々を過ごし、怪盗ルパンシリーズの挿絵など、子供向けの仕事を細々と続けながら、全盛期とは比べ物にならないほど凋落した生活を送っていた。晩年にはかつて絶縁した実家の兄を頼るほどに困窮し、神戸の老人福祉施設に入っている。そんな中、幼少時に華宵のファンだったという弁護士の鹿野琢見が偶然華宵の困窮ぶりを伝える記事を目にし、本人と文通を開始した(のちに華宵はあらたに「新・さらば故郷!」と題する水彩画を描き、鹿野に贈っている)。鹿野らの尽力に加え、かつて華宵の絵に熱狂した世代の後押しもあり、首都圏で華宵の回顧展が開催され、爆発的に人気が再燃した。その隆盛ぶりを見届けたのちの1966年7月31日、鹿野とかつて画料問題で対立した加藤謙一に看取られつつ生涯を閉じた。同日付けで挿絵画家としては初となる勲五等双光旭日章を受けた。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にあり、養子の華晃ものちに同じ墓に葬られている。鹿野らは1984年に東京都文京区に「弥生美術館」を開き、華宵の作品の常設展示を始めた(後述)。
※この「失意の戦後と幸せな晩年」の解説は、「高畠華宵」の解説の一部です。
「失意の戦後と幸せな晩年」を含む「高畠華宵」の記事については、「高畠華宵」の概要を参照ください。
- 失意の戦後と幸せな晩年のページへのリンク