失意からの乱闘、残留、シリア政府公認の空手指導員として
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「岡本秀樹」の記事における「失意からの乱闘、残留、シリア政府公認の空手指導員として」の解説
1970年5月、ダマスカスにあるシリアの警察学校は空手を学ぶこと決め、その指導者として岡本が派遣された。警察学校長の話では50人程度が集まるだろうと話していたが、オリエンテーションを開催したところ人は来ず、本格指導に入っても3人しか来なかった。また、その生徒もヒゲの無い岡本をガキとからかい、たまに来る他の生徒も真剣に稽古をしようとしなかった。また、大使館からは月170ドルというボランティアと言っていいほどの賃金しか受け取っていなかったため、隣国のレバノンにてアラブ人や欧米人を相手に個人指導をアルバイトとしていたが、大使館側からアルバイトや他国への無断移動は派遣の条件に反すると厳しく注意を行うなどしていた。シリアの若者に幻滅し、自国外交官の小言に辟易し、そして思うように行かない空手指導と岡本に帰国を決意させるには十分であった。 その後、警察学校で多量の酒を煽り気が大きくなった岡本は、自分を小馬鹿にした外交官を殴り倒してからではないと負け犬のように逃げ帰るのと同義だと外交官を探しに街へ向かった。しかし、外交官は見つからず怒りは募るばかり。そこに岡本と同時期に派遣されていた柔道指導員に外交官の車は日産のブルーバードだったと確認、周囲を確認すると外交官ナンバーのブルーバードがあったためそれを自国外交官の車であると思い込み、窓を全て蹴り壊し溜飲を下げた。実際にはブラジル大使館員の車であり、後に弁償することとなる。 岡本が宿舎への帰途につこうとしたところ、騒ぎを起こした岡本を取り押さえようと現地の警察官3人がやってきたが、これを回し蹴りで一蹴。柔道指導員に機動隊が来てしまうと言われるも、いまさら逃げる気のなかった岡本は強制送還のほうがいいだろうと機動隊を迎え撃つと気構えた。しばらくするとトラックに乗った武装した機動隊十数人が発砲せずに取り押さえに来たが、岡本はこれに反撃、機動隊員を殴り、蹴り、捕まりそうになれば木に登り飛び蹴りを浴びせ、押さえ込まれれば噛みつきと1時間に及ぶ大立ち回りの末、拘束された。岡本は留置所へ入れられるところだったが警察学校長がことを大きくしたくないということで宿舎に戻された。 本件を把握した日本大使は責任を取らせるため、岡本を帰国させることを決めた。岡本は帰国については覚悟していたが、自国外交官を殴れなかったことは心残りであったという。 契約解除の署名をするために大使館へ向かう前に、何も関係ないのに怪我をさせてしまった人に申し訳ないという気持ちがこみ上げてきたため、先に警察学校へ寄り校長へ謝罪しに行くことにした。校長に帰国することを告げたところ引き止められ、シリア内務省が昨晩の件から空手は実戦に使えると判断したため、君は帰国せずに警察学校で空手を教えなければならない、と命令に近い形で言われた。岡本はそれでも日本大使から帰国を命じられているので残るわけには行かないと返答したが、校長は内務大臣が日本大使の了解を取り付けるから君は残って空手を教えなければならない、と。その後内務省より日本大使は岡本の残留を了解したと連絡が入った。この時に残留の条件としてシリア側は、今後岡本が暴れても日本政府の責任とは考えないこと、岡本が任期を終えて帰国する際は旅費をシリア側が持つこと、そして岡本に「今後、日本大使館に迷惑をかけない」と書面で約束させることを提示し、日本側を納得させたという。 岡本復帰後、警察学校の道場には学校の生徒だけでなく、国家警察の将校や特殊部隊員など100人近くが集まっていた。 本件以後、空手は実践で使える技術であるという評判がアラブ中に広まり、各地から岡本に空手の指導を求める連絡が入るようになった。結果、シリア・レバノンだけでなく中東・アフリカ全域にまで指導を広げ、約40年間で200万人以上の空手人口を持つ地域を作り上げることとなった。
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