失意の京滞在 山口での宣教とは? わかりやすく解説

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失意の京滞在 山口での宣教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 09:36 UTC 版)

フランシスコ・ザビエル」の記事における「失意の京滞在 山口での宣教」の解説

1551年天文20年1月日比屋了珪の支援により、一行念願の京に到着。了珪の紹介小西隆佐歓待受けたザビエルは、全国での宣教許可を「日本国王」から得るため、インド総督ゴア司教親書とともに後奈良天皇および征夷大将軍足利義輝への拝謁請願。しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、比叡山延暦寺僧侶たちとの論戦試みるが、拒まれた。これらの失敗戦乱による室町幕府権威失墜背景にあると見られ当時御所や京の町はかなり荒廃していたとの記録もある。京での滞在あきらめたザビエルは、山口経て1551年3月平戸に戻る。 ザビエルは、平戸に置き残していた献上品携え三度山口入った1551年4月下旬大内義隆に再謁見それまで経験から、貴人との会見時には外観重視されることを知っていたザビエルは、一行美服装い、珍しい文物を義隆に献上した献上品は、天皇捧呈しようと用意していたインド総督ゴア司教親書の他、望遠鏡洋琴置時計ギヤマン水差し、鏡、眼鏡書籍絵画小銃などであったザビエルは、初め日本眼鏡持ち込んだといわれる。 これらの品々喜んだ義隆はザビエル宣教許可し信仰の自由認めたまた、当時すでに廃寺となっていた大道寺ザビエル一行住居教会として与えた日本最初常設教会堂)。ザビエルはこの大道寺一日二度説教行い、約2ヵ月間の宣教獲得した信徒数は約500人にものぼったまた、山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目琵琶法師がいた。彼はキリスト教教え感動してザビエル従い、後にイエズス会強力な宣教師ロレンソ了斎となった

※この「失意の京滞在 山口での宣教」の解説は、「フランシスコ・ザビエル」の解説の一部です。
「失意の京滞在 山口での宣教」を含む「フランシスコ・ザビエル」の記事については、「フランシスコ・ザビエル」の概要を参照ください。

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