失意と苦悩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 18:25 UTC 版)
しかし、その頃アラビア半島でイスラム教を信仰するアラブ人が勢力を拡大し、シリアへの侵攻を開始した。これに対して636年、ヘラクレイオスは自ら軍を率いてアラブ人を撃退しようとしたが、ヤルムークの戦いでアラブ軍に敗れてシリア・パレスティナを失い、敗戦の衝撃で病に倒れた。このとき シリアよさらば。何とすばらしい国を敵に渡すことか という悲痛な言葉を発したという。ただ、シリアをめぐる戦いは翌年まで行われているため、この発言は後世の創作ともいわれる。これ以降、東ローマ帝国はアラブ軍の度重なる侵攻を受け、再び危機に直面することになった。病に倒れた後は、自身の後継者問題や、単性論をめぐる宗教対立などに苦しみながらもイスラムに対する防衛線を構築するのに尽力した。これがテマ制の始まりである。 641年2月11日、失意と苦悩のうちに没した。次の皇帝は先妻エウドキアの子コンスタンティノス3世と後妻マルティナの子ヘラクロナスが共同皇帝として即位したが、同年にコンスタンティノス3世が急死、次いで反乱によりマルティナとヘラクロナスが排除された結果、孫のコンスタンス2世(コンスタンティノス3世の子)が即位した。 なお、死に関連して、生前から「死後三日間は棺に封をしない」措置を遺言していたという話が残る。これは過去の皇帝であるゼノンの死の際のようになることを恐れていたためと伝わる。
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