失意の晩年
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「ジョン・オブ・ランカスター」の記事における「失意の晩年」の解説
ジャンヌを処刑した後、ルーヴィエ(フランス語版)に攻勢を開始させ、本国からの増援も得て10月に同市を陥落させることに成功した。さらに12月17日にはヘンリー6世をパリのノートルダム大聖堂でフランス王として戴冠させたが、イングランド軍の劣勢が覆しがたくなりはじめていたため、戴冠式後にはヘンリー6世を早々に帰国させた。 1432年以降にはイングランドの敗色が目立つようになり、同年2月20日にはシャルトルをフランス軍に奪還された。その数か月後にはパリとシャンパーニュの間に位置し、輸送隊を組織するのに重要であったラニ攻囲を撤収する羽目になった。11月にはブルゴーニュ派との懸け橋の1つである妻アンヌを失った。1434年にはノルマンディーのベサン地方がベッドフォード公の課した重税に耐え切れずに蜂起を開始した。他のノルマンディー地方もほとんど統制が利かなくなっており、野盗が急増して無法地帯と化していた。 晩年には主戦派であるグロスター公からも戦況悪化の責任を追及されるようになり、1435年9月14日に失意のまま46歳でルーアンで薨去した。1週間後の9月21日にはついに善良公とシャルル7世がアラスの和約を結んで和睦し、1436年4月にはパリが陥落した。以後イングランドは劣勢を覆せず、百年戦争の終戦を迎えることになる。
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失意の晩年
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中華人民共和国建国後は、政務院(後の国務院)政務委員、財経委員会委員、政治協商会議全国委員会常務委員などを歴任した。1952年8月に糧食部が成立すると、初代部長に任命され、1954年には全国人民代表大会代表にも選出されている。章は糧食部長として食料調達や物価調整に辣腕を発揮し、中華人民共和国初期の建設に大いに貢献した。 しかし1957年に反右派運動が始まると、それまでの言論を咎められる形で章乃器も右派分子に認定され、糧食部長など各職から罷免された。以後、閑居していたが、1966年の文化大革命でも再び批判・迫害を被っている。1975年、鄧小平の再調査により、章への右派認定は取り消された。 1977年5月13日、北京にて死去。享年81(満80歳)。1980年6月、章乃器への右派認定そのものが冤罪であったと認められ、完全な名誉回復が成った。
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