失意の最期とは? わかりやすく解説

失意の最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:52 UTC 版)

ヘンリー2世 (イングランド王)」の記事における「失意の最期」の解説

フィリップ2世代替わりしたフランスとは彼の姉妹付随していた嫁資巡り対立していた。若ヘンリー王未亡人マルグリット1186年ハンガリー王ベーラ3世再婚同母アデルリチャードとの結婚がされないままだったため、姉妹それぞれの嫁資ヴェクサンジゾール英語版)の返還フィリップ2世から求められたが返事引き延ばし続けたヘンリー2世フィリップ2世ジゾール大木の下でしばしば会見して返還交渉したが、いつも物別れ終わりその度双方臣下たちの小競り合い生じて険悪な雰囲気になり、1188年8月会見ではイングランド側の兵士が矢を射かけて怒ったフランス人たちが突撃イングランド側が退散し交渉破談するという事件もあった。 同年11月ジゾール開かれたヘンリー2世フィリップ2世何度目かの和平交渉中、リチャードは父の前でフィリップ2世臣従誓いをし、公然と父との敵対宣言したヘンリー2世の元から臣下たちは離れウィリアム・マーシャルなど忠誠誓った騎士たちだけが残りリチャード・フィリップ2世の前で劣勢になり、翌1189年戦いの中、ル・マンにたてこもったヘンリー2世6月リチャードフィリップ2世追跡かわそう郊外火を放つが、炎は市街へと燃え広がり自身生まれた街は焦土化した。既に健康を害していたヘンリー2世精神的ショックに耐えられずシノン城撤退し休戦協定結ばれたル・マンを手放さざるを得なかった。さらに寝返った者の名簿先頭最愛息子ジョン名があるのを見て最後気力失い7月6日崩御した。56歳だった。 最期看取ったのは、忠臣マーシャルなど供回りの者と、息子の中では庶子僧籍にあったジョフロワ英語版)だけであった遺体シノン近郊フォントヴロー修道院安置されアンジュー帝国受け継いだリチャードは父の葬儀出席した後、幽閉中のアリエノール釈放しイングランド王リチャード1世として即位した母子ヘンリー2世厳罰主義改めながら彼の側近たちを赦免して味方取り込みジョンにも多く領土与えて支持取り付け寛大な政策アンジュー帝国固めたリチャード1世第3回十字軍参加して遠征向かっていった。

※この「失意の最期」の解説は、「ヘンリー2世 (イングランド王)」の解説の一部です。
「失意の最期」を含む「ヘンリー2世 (イングランド王)」の記事については、「ヘンリー2世 (イングランド王)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「失意の最期」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「失意の最期」の関連用語

失意の最期のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



失意の最期のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのヘンリー2世 (イングランド王) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS