社会運動への志願
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黎子は定輔との出逢い以来、家庭に留まること、強制的に結婚させられることに、さらに苦痛を感じ始めた。そして、東京市(後の東京都)で働き、社会運動の実践に参加したい、可能ならば定輔の『野良に叫ぶ』の出版社である平凡社で働きたい、との意志を強くした。しかし姉の1人(三女)が家を呪い、文学修行と称して文学青年と共に出奔していたため、自分も家を出れば母を悩ませると思い、行動に移ることができずにいた。その姉からは「私を助けると思って、私の真似をしないでほしい」と懇願されていた。 先の定輔との出逢いにより、平凡社の当時の社長の下中弥三郎は定輔の師であり親交があると知ったことで、黎子は下中に上京の希望と就職斡旋の依頼の手紙を書いた。また、『婦人運動』に寄稿していたことから、同誌主宰者である婦人運動家の奥むめおにも同様の手紙を出した。同年2月に奥からの依頼により、雑誌『婦人運動』2月号に、「長沼 朝」のペンネームで手記「農村婦人の一日」を寄稿した。この中で黎子は、自分がプロレタリアートの娘として生まれた方がどんなに良かったかと述べている。当時、社会運動家の山本宣治が殺害されたことも、黎子に衝撃を与え、生活を新たにしたいとの意志を強くすることとなった。 同2月に、奥むめおから黎子宛に返事が届いた。上京そのものには大体賛成だが「家族の了承が得られれば」とのことだった。続いて2月9日、奥から黎子の兄宛に手紙が届いたことを機に、家族に上京の希望を打ち明け、その許しを求めた。父や兄や姉たちは渋々ながら了承したものの、母は出奔した三女のこともあって猛反対であり、一旦は挫折せざるを得なかった。苦悩のあまり、3月には高熱と嘔吐感に襲われ、数日間にわたって病床に伏せた。 4月19日から27日にかけ、雑誌『改造』の懸賞論文への応募を目指し、地主家族としての生活の自己清算を試みた論文として、原稿用紙47枚にわたる「寂莫を超えて」を書いた。内容は、自身の寂莫を科学的に究明し、その正しい解決を求めようとしたものだった。 失意と苦悩の日々と戦うように、黎子はカール・カウツキーの『資本論解説』や『弁証法唯物論』といった社会主義関連の書籍、『婦人運動』『中央公論』『改造』『経済往来』などの雑誌を読み漁った。また、ドイツの女性革命家であるローザ・ルクセンブルクを偉大な女性として尊敬し、自身もローザのような母親になることを望んでいた。 ふとローザ・ルクセンブルグのことを考えて『ローザの手紙』を出して読む。ローザはいつ読んでも全く偉大だ。ローザの母のようだったら、どんなにいいか、などと空想してみた。そうだ、ローザは圧迫された婦人の解放のために、一生を捧げつくした、われらの母なのだ。 — 1929年6月24日付の日記、渋谷 1978, p. 89より引用
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