社会運動の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 02:54 UTC 版)
夫の死が人生の転機となり、佐野は積極的に矯風会の活動に取り組み始めた。1923年(大正12年)には、女性宣教師のアイダ・ゲップ・ピアソンの跡を継いで矯風会旭川支部の支部長となった。 折しも日本は大正デモクラシーの最中であり、女性の社会進出につれ、職業を持つ女性たちへの理解度がまだ少ない時代にあって、女性たちの悩みは深刻なものであった。また、1923年の関東大震災の後、多くの人々が生活の場を求めて北海道にやって来ていたことも、職業を持つ女性の増加、女性に関する問題の表面化の一因になっていた。矯風会は女性解放と職業を持つ女性の応援を設立趣旨の一つに掲げていたことから、託児所設立の活動が開始され、佐野はその先頭となって働いた。佐野らの熱心な活動が行政を動かした末、1924年(大正13年)、旭川愛児園が設立された。 佐野は愛児園の園長を自ら務め、1日4銭という当時としては奉仕的な保育料で子供を預かった。また「母の会」を結成することで、子供を持つ親同士の意見交換や講演会の場を設け、女性たちが安心して仕事に就けるよう支援を続けた。日本赤十字社北海道支部第7班救護看護婦の1人は、看護婦となる以前の1925年(大正14年)にこの愛児園に勤務しており、乳児から幼児まで50人近い子供が収容されていたことを後に証言している。 愛児園の設立翌年、佐野は病気のために園長を辞任した。後の1940年(昭和15年)には愛児園は矯風会のもとを離れ、社会福祉法人の旭川隣保会となって発展し、平成期にいたるまで保育所のための団体として機能している。
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