社会運動の考え方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:38 UTC 版)
牧は学生運動や社会運動といった大衆運動は広い意味での教育そのものだと考え、最初の運動者が多数者の認識を変革して運動の側に獲得していくにはどうしたらよいかということを、「運動論いろは」としてカルタにまとめた。 運動とは、あなたがだれかにはたらきかけること、そしてみんなで何かをやること。 このことばは運動というものの領域を一気に広げる。大衆運動だけでなく、教師が生徒にはたらきかけること(授業)も、あなたとあなたの意中の人との間に起こる何事かも運動に他ならない。 反対のことは せず させず。 牧が最も重要だとしている原則。多数決で何かを決めた場合、それに反対した少数派の人間に対しても「多数決で決まったんだから」と事を押しつけてやらせることはやってはいけない。多くの組織・運動はそれを分かっていない。多数を取ったからといってその方針が正しいかどうかは運動をやってみて実験結果が出なければ分からない。その実験をやる前には多数意見も少数意見も等しい価値しか持っていない。その大切な実験を反対意見の人間にやらそうとするのは非常にまずいやり方である。多数決で決めなければならないときは「少数派になった人達はそんなことはやらなくていい」としないと、運動は分裂してしまう。牧は「そんなことで運動が成り立つのか」という反論には「成り立つ」と断言する。全員一致などしなくても組織は分裂しない。反対の人はやらなくてもいいが、妨害行為はやらないということが運動がうまくいく原則であるとする。そして大部分の人が出てこないような行動なら、そんな行動を決めた方針が間違っている。そんな運動はやめなさいと説く。 「べし」「べからず」でヤセ細り。 運動がうまくいかなくなると「多数決で決まったんだから××しなければならぬ」と反対意見の人まで追い立てるようになる。「××すべし」「××すべからず」というのが増えてくると、その運動も組織もヤセ細って活力を失う。「べし、べからず」では人間は動かないということをよく分かって運動をやらなければならない。やりたいやつがやっていればうまくいく。 小さな禁止が大きな抑圧。 「どうでもいいことなんだから俺たちの言うことを聞いてくれ」というのは、言われる側にとっては「そんなどうでもいいことでさえ、俺たちの自由にならないのか」となって、大きな抑圧となり、深刻な人権侵害である。そういうことはやってはいけない。牧は学校の校則もそうしたものが多いと指摘した。
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