社会運動家となるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 02:54 UTC 版)
両親ともに熱心なキリスト教徒で、特に父親は弱者のために精力的に尽くす人物であった。そうした環境のもとで文子は、強い正義感と独立心を持つ女性として育った。しかし父はその性格が災いし、知人の借金の保証人となったことで破産。1909年(明治42年)に長女の嫁ぎ先を頼り、一家揃って北海道旭川市へ転居した。 旭川の地で文子は、上川尋常小学校(後の旭川市立日章小学校)の教員を経て、7歳上の牧場経営者の佐野啓次郎と知り合い、間もなく1912年(明治45年)に結婚。教職を辞して家庭に入り、新婚生活を営んだ。子供には恵まれず、夫の妹が幼い女児を遺して死去したことから、その女児を養女としてひきとった。 この頃より、弱者を労わらずにいられない父譲りの性格は現れており、防寒着なしで厳寒の冬を過ごす近隣の小学生たちのために、和裁の仕事で貯めた金を小学校に寄付するなどしていた。 1915年(大正4年)、夫婦ともに受洗してキリスト教徒となった。矯風会にも入会したものの(正式な入会時期は不明)、この時期には会員としての活動はほとんどなかった。 夫は広大な牧場の土地を持つ有能な実業家であった。しかし1921年(大正10年)、夫の知人が丹毒に罹患、友情に厚い夫が感染の危険も顧みずに知人を見舞ったことで自身も丹毒に罹患し、同年に36歳で死去。結婚生活と実業家夫人としての生活は、10年にも満たずに終わった。
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