文学修行
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1923年、東京に出て、新聞社から文士講演会の要約や文士訪問の原稿の仕事をもらい収入を得るようになり、仕事を通じて文学の師となる徳田秋声 、宇野浩二と面識を持つ。1925年、徳田秋声の推輓で「無題」が雑誌『新小説』に掲載されて文壇デビューをする。「無題」を新聞の学芸欄で高く評価した宇野浩二に可愛がられて薫陶を受け、田畑修一郎、牧野信一を紹介される。この時期に尾崎一雄とも知り合っている。小説や随筆の執筆だけで生活しようとするが、上手くいかず、下宿代が払えなくなる。1929年、一時、徳田秋声の家に居候をするが、プロレタリア文学の台頭で徳田秋声にも仕事が無い状況であり、居辛くなって結局、小田原に帰る。 その同年、小田原のカフェの女給と恋仲になり、名古屋に駆け落ちし、その後紆余曲折を経て、東京で所帯を持つ時期もあったが、経済的に困窮して最終的には破局する。1930年、徳田秋声に連れられていったダンスホールでダンサーの女性を紹介されて、一時交際する。。1933年に父・太三郎が胃癌で死去して、家業の魚屋は弟・正次が継ぐことになる 。 満州事変が始まって以降、プロレタリア文学が退潮していくと、人気の落ちていた宇野浩二が「枯木のある風景」を書いて返り咲く。1933年、田畑修一郎 、嘉村礒多らと宇野浩二を囲む年一回の懇親会「日曜会」を始める(「日曜会」は戦中・戦後通じ28回続いた)。しばらくのち、この会に中山義秀も参加して親しくなる。1934年に初めての著書『路草』を上梓するが、文学だけでは生活は成り立たず、通信社の記事執筆で収入を得ている。「文芸復興」のこの時期は、同人雑誌の創刊が相次ぎ『雄鶏(のち麒麟)』『世紀』『木靴』『文藝生活』の同人となっている。 1935年に「余熱」が第2回芥川賞の候補となる。1937年には『朽花』を上梓している。日中戦争が始まると国策文学の時代になり、文学的な居場所がなくなっていき。1938年、通信社の匿名文芸時評の仕事を携えて、逃げ帰るように小田原に戻る。同年には文学仲間である田畑修一郎(「鳥羽家の子供」)と中山義秀(「厚物咲」)が芥川賞で競り合い、中山が「厚物咲」で受賞している。
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