文学協会『ジュニメア』
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「ミハイ・エミネスク」の記事における「文学協会『ジュニメア』」の解説
1869年から1872年、ミハイはウィーンで学んだ。ミハイは哲学と法学の学部で「臨時聴講生」とみなされ、学生生活中は活動的に行動し、小説家ヨアン・スラヴィチと親交を持ち、詩人ベロニカ・ミクレを通してウィーンを知った。文学協会『ジュニメア』が編集する本『文学の対話』(Convorbiri literare)にも寄稿するようになった。文化機関である『ジュニメア』のリーダー達、ペトレ・P・カルプ、ヴァシレ・ポゴル、テオドール・ロセッティ、ヤコブ・ネグルジ、そしてティトゥ・マヨレスク(英語版)の活動は、ミハイの半生の、政治的、文化的な背景に大きな影響を与えた。その中でミハイの詩の一つ「ヴィーナスとマドンナ」(Venere şi Madonă)に感銘を受けたリーダーの1人、『文学の対話』の編集者でもあったヤコブ・ネグルジは、ミハイに会いにウィーンまでやって来た。ネグルジは晩年、ミハイとの出会いを、長い髪と物思いに耽る「ロマンチック(非現実的)」な様子で、注目を浴びてウィーンのカフェ内で若者の集団から浮いていたため、ミハイをたやすく見つけ出す事が出来たと書いている。 1870年、エミネスクはオーストリア=ハンガリー帝国の中のルーマニア人とその他の少数派の置かれた状況下で、古代ローマの風刺家マルクス・テレンティウス・ウァロ Marcus Terentius Varro の名を借りて「バロ」(Varro)というペンネームのもと、ペシュトの雑誌『フェデラツィウネア』(Federaţiunea=連合)に、3つの記事を書いた。その頃、ペシュトの新聞『ミツバチ』(Albina)のジャーナリストになった。また1872年から1874年は『ジュニメア』からの給料のおかげでベルリンに学生として留まることが出来た。 1874年から1877年、ミハイは『ジュニメア』のリーダーの1人で、モルダヴィア地方の都市ヤシの大学校長であるティトゥ・マヨレスクとの親交により、ヤシの中央図書館の理事として働き、ウィーンとヤシの州で代用教員、学校監査官、新聞『ヤシ新報』(The Courier of Iaşi)で編集などを務めた。また、『ジュニメア』の本『文学の対話』で作品を発表し続けた。その他にもイオン・クリャンガの良き友になり、作家になるように説得して、『文学の対話』に紹介した。 1877年、27歳の時、ミハイはブカレストに移住。1883年までの間、保守党 (ルーマニア, 1880-1918)の公報紙『ティンプル』(Timpul)の最初の編集長になった。この時期に、名作「金星ルチャーファル(英語版)」(Luceafărul)、「古代の韻による叙事詩」(Odă (în metru antic))、風刺詩「手紙」(Scrisori)が生まれた。 ミハイの有名な編集記事の多くが、ルーマニアが露土戦争 (1877年)でオスマン帝国と戦った時とその間の外交争いの時期のもので、それはついにルーマニア独立の国際的な承認をもたらした。だがその承認は、ユダヤ教の全ての国民にルーマニアの市民権を授けるという条件下でのものであった。エミネスクはこの条件とベルリン条約 (1878年)の条項に抵抗する記事を編集。しかし、ルーマニアはベッサラビア南部領地を、黒海に面した元オスマン領土のロシア領ドブロジャ北部と交換しなければならなかった。 1883年6月、詩人ミハイは精神錯乱を発症し、シュツ医師の病院に強制収容された。同年10月、ウィーン近郊にある療養所に入院した。そのため同年12月、ミハイの詩歌をティトゥ・マヨレスクが選んだ選集『ポエジー』が出版され、その序文もマヨレスクによって書かれた。これはミハイの生前に出版された、唯一の詩集となった。
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