年譜・経歴
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1924年3月、婚外子として日本統治時代の台湾台南市に生まれる。10人兄弟の長男。父邱清海は台湾人実業家。母堤八重は久留米生まれの日本人。 1937年 13歳のとき台北高校尋常科に入学。このころから文学に志して自ら詩を書き、個人雑誌『月来香』を発行。16歳で「台湾詩人協会」の普通会員(最年少)となり、邱炳南名義で詩作を西川満が主宰する『華麗島』創刊号に発表。台北高校の同窓に李登輝がいた。 1943年 10月東京帝国大学経済学部入学。これについて本人は「文学部ではなく経済学部を選んだことは学校のクラスメイトや教師たちを驚かせた。私の文学かぶれはあまねく全校生徒に知れ渡っており、私が文学部にすすむのは当然のことと思われていたからである。私がそうしなかったのは、植民地台湾に生まれた私のような人間が将来、文学を志しても生計を立てていく自信がなかったからである」(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)と記している。しかし文学への関心やみがたく、仏文科の辰野隆の講義も聴講した。 1944年3月 邱の友人の冗談を真に受けた麹町憲兵隊によりスパイ容疑で逮捕されたが1週間で釈放。このころ、経済学部の定期試験で満州国の統制経済について問われ、日本の満州支配を経済学的に批判したところ、不穏思想の持ち主として退学処分になりかけたこともある。 1945年 東京帝国大学経済学部を卒業後、大学院で財政学を研究。大学院時代に東大社会科学研究会(のちの全学連の母体)を創設し、当時まだ珍しかった世論調査を実行した。 1946年 大学院を中退して台湾に戻り、土建会社経営や中学の英語教師や銀行のシンクタンク研究員を経験。砂糖の密輸に手を出して逮捕されたこともある。 1948年 台湾独立運動に関係して中国国民党政府から逮捕状が出たため香港に亡命。このとき、物資欠乏の日本に郵便小包で商品を送る事業を始めて成功を収めた。 1950年 月収が当時の金で100万円に達し、香港で高級マンションに住まい、運転手つきの自家用車を乗り回す身分となった。このころ、友人の窮状を題材に処女作「密入国者の手記」を執筆。 1954年1月 西川満の紹介により「密入国者の手記」が『大衆文芸』1月号に掲載。「密入国者の手記」が山岡荘八や村上元三から評価され、『大衆文芸』誌で作家デビュー。4月、事業が傾いたのを機に、娘の病気の治療と文学修行を兼ね、日本に移住。同年12月、檀一雄と佐藤春夫の後押しで『濁水渓』を現代社から上梓、直木賞候補となる。 1955年に小説『香港』で第34回直木賞を受賞。外国人として最初の直木賞受賞者である。 1967年から1969年まで、邱が経営する株式会社求美が出資して、雑誌話の特集を刊行していた。 2012年5月16日、東京都内の病院で心不全のため死去。88歳没。
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