年貢徴収法改正の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)
財政難に苦しんだ郡上藩は、年貢を増徴して収入の増加を図ることとなった。藩主頼錦の側近であった金森藩の江戸詰め役人である家老の伊藤弥一郎、用人の宇都宮東馬、宮部半右衛門らと、国元の役人の大野舎人、半田園右衛門らは協議して、年貢の徴収法をこれまでの毎年基本的に同じ分量の年貢を納める定免法から、実際の収穫高を算定して年貢高を決定していく検見法の中でも、特にそれぞれの田の収量を細かく把握して年貢高を決めていく有毛検見法に変更し、更に農民らが新たに開発していた切添田畑を洗い出して新規課税を行うことを計画した。 年貢の徴収方法の変更には幕府老中の承認のもと、幕府勘定奉行の許可が必要であった。ここで役に立ったのが藩主金森頼錦の縁戚関係であった。金森頼錦は当時老中を務めていた本多正珍の娘と婚約していたが、正珍の娘は婚姻前に死去したものの、その後頼錦は正妻を娶らなかったので、本多正珍は頼錦の義父とされた。また金森頼錦の実弟、本多兵庫頭の養父は寺社奉行本多忠央であった。幕府要人との縁戚関係の他に、金森頼錦が務めていた幕閣と諸大名との交渉窓口である奏者番の役職も年貢徴収法の改正の許可を得るのに役立ったと考えられる。結局、勘定奉行の大橋親義から年貢徴収法改正の許可を得た上に、大橋勘定奉行から検地の名人とされる黒崎佐一右衛門を紹介され、宝暦3年(1753年)12月、郡上藩は黒崎を用人格として新たに召抱えることとなった。 宝暦4年(1754年)2月、郡上藩は領内の各村に対して、田畑の詳細について記録した「田畑反別明細帳」の提出を命じた。同年6月から黒崎佐一右衛門は郡上藩領内を巡検し、各村から提出された田畑反別明細帳をもとに田畑の調査を始めた。黒崎の経歴ははっきりしないが常陸国の農民の出とも言われ、農村事情に明るく、郡上藩に召抱えられる以前も美濃国加納藩で代官を務め、やはり検見法の導入を図った前歴があり、郡上領内でも厳しく田畑の調査を進めていった。 黒崎が行った郡上領内の田畑調査は、農民らに大きな不安を巻き起こした。まず宝暦4年7月11日(1754年8月28日)、小駄良口(旧八幡町)の庄屋たちが御用金負担が重いことを訴え、新規の課税と御用金の徴収を止めるよう嘆願した。宝暦4年7月15日(1754年9月1日)には、郡上領内の農民が吉田村(旧八幡町)に集まって藩に対して万事これまでの先例通りに行うように嘆願することを決め、宝暦4年7月16日(1754年9月2日)には那留ヶ野という場所に郡上郡内の庄屋、組頭が集まって、黒崎佐一右門が行った郡上領内の巡検は容認できるものではなく、何事によらずこれまでの先例通り行って欲しい旨の嘆願書を作成した。なおこの際、ほとんどの郡上郡内の庄屋が参加したが、3、4名の庄屋は参加しなかった。嘆願書は郡上藩側に宝暦4年7月17日(1754年9月3日)手渡された。黒崎佐一右衛門の郡上領内巡検に対して郡上領内で広範な抗議行動が発生したことにより、結果としてその後まもなく行われた郡上藩側の年貢徴収法の改正申し渡しに対して、農民側がすばやく抗議態勢を固めることが可能となった
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