挿絵画家として
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1915年(大正4年)には東京美術学校で同期だった平澤とともに、東京市小石川区白山御殿町(現・東京都文京区白山3丁目)の借家で共同生活を始めた。年末にはやはり同期の川上も同居するようになり、二葉社が創刊した絵雑誌『トモダチ』で子ども向けの挿絵を描く仕事を得た。1916年(大正5年)には国技館の納涼博覧会の背景を描いている。1918年(大正7年)には川上が結婚したため、河目と平澤は本郷区駒込東片町(現・文京区向丘1丁目)に転居した。 1920年(大正9年)には東京美術学校の1年先輩だった北島浅一の紹介で、本所区厩橋畔(現・墨田区本所)にあった小林商店(現・ライオン)に入社して広告部図案係に配属された。1921年(大正10年)には愛知県西尾出身の松崎みさをと結婚し、刈谷町の実家で挙式した。みさをは愛知県立第一女学校(現・愛知県立旭丘高校)卒業後に私立女子美術学校(現・女子美術大学)で学んだ経験を持つ。1922年(大正11年)には長男が、1924年(大正13年)には長女が、1927年(昭和2年)には次男が生まれている。 1922年には小林商店広告部が京橋区山城町(現・中央区銀座)に移り、コドモ社の『良友』では表紙絵画家に抜擢された。1926年(大正15年)には杉並区上荻窪町(現・杉並区西荻北)に新居を構えた。北島、川上、千葉省三、太田三郎などが近くに住んでいた。東京美術学校同期の栗原、後輩の吉澤廉三郎、小林商店広告部で同僚の戸田達雄とともに作品を批評しあう会を始めた。 1958年4月23日、狭心症のために自宅で死去した。満68歳。
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